うっぷす時間切れ
続きは電車で
この映画は、内容的にはカオスであり、メタには、世界の諸要素を余すところなくぜんぶ掬い上げようという「関心」の態度をもつべき、もてというメッセージだ、といえます。
内容がカオスであるのは判明であると思います。たとえば、学校で唯一不良学生たちに関心を寄せ彼らの更生の方途を考えようと向き合った結果、修学旅行の積立金強盗事件の共犯として扱われクビにされてしまう教師の野呂、堕胎手術の費用のためにその積立金強盗を企てる不良女学生のタマ枝、不良学生たちの姉貴分でありコザ暴動の際に沖縄を追われ本土に逃げ込んだために戸籍を失い旅から旅のヌードダンサーをしているバーバラ、バーバラの恋人で同様に戸籍を失いいわゆる原発ジプシーとなり今ではヤクザの手先をしている宮里、知的障害のある娼婦で、足抜けをはかったためにヤクザから追われているアイコ、アイコの恋人で原発内で起きた転落事故の際に被曝したが過酷な原発労働の実態が公になることを恐れたヤクザに命を狙われる安次、日本語を話すこともできないフィリピン人の「じゃぱゆきさん」でありカップラーメンを食べられることが幸せなのだとされるマリア…と、ちょっとしつこいですが、まったくカオスです。105分という上映時間であるのに、主人公級に内面を深く描写される人物が5人も6人も登場するんですね。
これはなんなのだろうとおもいます。生き生きと躍動する具体性に取り囲まれ、みんな戸惑うのではないでしょうか。つぎのように考えてみたいとおもいます。この映画がカオスであるのは、まさにカオスを写し取ろうとしたからなのではないか。すなわち、現れる人々の存在を丸ごとすべて描こうとすること、そういう態度を選んだ結果がこの量感なのではないか、と。
この映画において、現れる人々に向けられる執拗なまでの「関心」は、ある登場人物のとる態度と通じているように思われます。知的障害のある娼婦、アイコです。ヤクザどおしの抗争や被曝労働などの過酷なシーンが連続する緊張した本作品の中で、例外的に穏やかで静かな時間の流れる印象深いシーンがあります。人気のない砂浜でバーバラとタマ枝、そしてアイコが焚き火を囲い夜を徹して宴会をする場面です。そこでアイコは言います。私は今までに出会ったすべての人を克明に覚えているのだ、と。そうしてその人々の名前を親しげに挙げてゆくのです。
このアイコはいわゆる「アホの子」なんです。快活で明るくて優しくて可愛い。なんで『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる生前の?目玉の親父みたいな恰好をしている泉谷しげるとくっつくのかよくわからないくらい、本当のアイドル、女神様みたいな良い子なんです。娼婦なんだけど、純粋さの結晶みたいな感じです。
さらに、この宴会の場面には、サブリミナル効果のように、美浜原発で働く原発ジプシーたちの様子がさしはさまれるんですけど、これがすごく怖いんですね。放射能から身を守ってくれる防護服は、着た人の視覚と聴覚をも著しく制限してしまう、呼吸が苦しく、感覚が塞がれた状態での原発内における労働はほんとうに恐ろしい。そういう印象を受けます。
そんな原発における被曝労働者たちのなかで、きっとアイコはほんとうに女神みたいな感じだったんじゃないかと思うんですね。
アイコはなぜヤクザ的なものと対蹠的な存在であるというのですか?
ヤクザは「数」で処理しちゃうと思うんですね。要は工場、原発が滞りなく動けばいい。それを誰が動かすかなんてことはどうでもよろしい。原発の稼働には被曝労働が不可欠ですから、被曝なんてごめんだという「私」でさえなければいいわけです。ヤクザたちにとっては被曝労働者の個性なんていうものはむしろ邪魔です。ただ、これはもちろんヤクザが特別悪いというのではなくて、使用者一般にむけて言えることで
あって、たとえばぼくも普段から似たようなことをしている。たとえばそれは、飲み屋で店員がどういう人間であるかなんてどうでもいいと思っている態度ですね。彼らのキャラクターが際立つことはむしろ宴会にとって邪魔でさえあるという意識です。消費者マインドが行き過ぎると労働者に対する扱いが家畜やロボットに対するものとおなじようになってしまう。ぼくは居酒屋アルバイトの経験を踏んで、そういう反省をしました。
アイコはしっかりと出会った人の名前を覚えている。映画の観客にとっては、もちろん知らないそれらの人々のひとりひとりが、アイコの記憶を通じて、間接的に「かけがえのないひと」になっていく。「俺はお前に金を払ってるんだぞ。身を粉にして働くんだよ」という一方的で突き放した態度とは正反対であると考えます。
無関心というのは「お前のことなんて知らないよ」という態度ですね。「みる」にはいろいろあって、ぼんやりと眺めるのと観察するのとではまったく違うとよくいいますが、そのような分類でいうと無関心は、「視界には入っているけれど意識されない」という状態であるといえます。「虫けらを見るように見る」というのは、感情の変化をともなって、ある印象と共に対象を見つめているのであって、まだ一種の関心を寄せているわけですが、この「意識しない」というのはむしろそれよりも恐ろしくて、気が付かないということです。関心を寄せられない側から見ると、相手にとって私の存在はないのとおなじだということになります。
なぜひとは無関心になるのか
これは二通りあるような気がします
袴田冤罪事件の袴田さんの話で、彼はこんなことを話していたというんですね。医学的にはどうかわからないのだけれども、自分が無実だと主張しても誰にも信じてもらえない、お前はうそつきだというようなことしか言われないからうんざりして聞かないようにしていたらほんとうに聞こえなくなったのだ、と。
まさにこのタイプで、聞こえないようにしているうちに本当に聞こえなくなってしまう場合。都合の悪いことから目をそむけ耳をふさいでいるうちに本当に見えなくなる聞こえなくなるということは、私は「ある」とおもいます。
もうひとつは、防護服に身をつつんで原発内労働にいそしむような状況で、感覚が制限されて自分の目の前のことに意識が没入してしまうようなところに長くいた場合、関心をひろくする、開いていくような能力が減退してしまうのではないかとおもいます。そういう環境や仕組みがあるためにそういう形に押し出されてしまう例です。
それはなぜ現代日本社会と関係があるのですか
さきにいった、消費者マインドの社会的な瀰漫ということがひとつ。それから、街の建物がつるつるとしていっているという話があります。これは話すと長くなるのだけれど、とりあえず東京の街並みが高度に商業目的化した結果、広告にとってノイズとなるものを排除する力を持ち始めているんですね。それを「つるつる」と言っています。場に意味や経験が滞留・付着することを認めないために、そこに生きる人々の時間、人生が貧困化しつつあると考えられます。消費活動以外の経験が場に付着していかないから、そうしようという意欲が減退し、ひとびとが自閉していってしまうという傾向が指摘できると思います。これはまさにさきの意識没入的な環境、仕組みの結果の無関心であるといえます。