生きてるうちが花なのよ02 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言


 この映画は「カオス」である。ジャンルでいえば群像劇であるのだが、それぞれの登場人物の背負っている物語がへヴィーなために、ほとんど消化不良なほどの量感を感じさせる作品である。105分という上映時間であるのに、主人公級に内面を深く描写される人物が5人も6人も登場する。

 たとえば、学校で唯一不良学生たちに関心を寄せ彼らの更生の方途を考えようと向き合った結果、修学旅行の積立金強盗事件の共犯として扱われクビにされてしまう教師の野呂、堕胎手術の費用のためにその積立金強盗を企てる不良女学生のタマ枝、不良学生たちの姉貴分でありコザ暴動の際に沖縄を追われ本土に逃げ込んだために戸籍を失い旅から旅のヌードダンサーをしているバーバラ、バーバラの恋人で同様に戸籍を失いいわゆる原発ジプシーとなり今ではヤクザの手先をしている宮里、知的障害のある娼婦で、足抜けをはかったためにヤクザから追われているアイコ、アイコの恋人で原発内で起きた転落事故の際に被曝したが過酷な原発労働の実態が公になることを恐れたヤクザに命を狙われる安次、日本語を話すこともできないフィリピン人の「じゃぱゆきさん」でありカップラーメンを食べられることが幸せなのだとされるマリア…などである。

 これはなんなのだろう。生き生きと躍動する具体性に取り囲まれ、私たちは戸惑う。

 これは、つぎのように考えるべきであるのではないか。この映画がカオスであるのは、まさにカオスを写し取ろうとしたからなのだ。すなわち、現れる人々の存在を丸ごとすべて描こうとすること、そういう態度を選んだ結果がこの量感なのだ、と。この映画において現れる人々に向けられる執拗なまでの「関心」は、ある登場人物のとる態度と通じているように思われる。さきに触れた知的障害のある娼婦、アイコである。

 ヤクザどおしの抗争や被曝労働などの過酷なシーンが連続する緊張した本作品の中で、例外的に穏やかで静かな時間の流れる印象深いシーンがある。人気のない砂浜でバーバラとタマ枝、そしてアイコが焚き火を囲い夜を徹して宴会をする場面である。アイコは言う。私は今までに出会ったすべての人を克明に覚えているのだ、と。そうしてその人々の名前を親しげに挙げてゆくのである。

 この、名前をみんな覚えているという態度は、
さらに、宴会の場面には、サブリミナル効果のように、美浜原発で働く原発ジプシーたちの様子がさしはさまれる。放射能から身を守ってくれる防護服は、着た人の視覚と聴覚をも著しく制限してしまう。呼吸が苦しく、感覚が塞がれた状態での原発内における労働は恐ろしい。