世界の無意味化について | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで



 合理化が貫徹されることで生活空間が人間の生活から遊離した疎遠で非現実的なものになること、これが荒地化であると藤田はいう。理性なき合理化が一様に推進していく生活空間の既製品化を荒地化とする、三十年前に提出された問題設定は、がらんとした、さみしい感じが広まりつつある現代の生活空間について考えるとき、いまだに有効だろうか。

おそらくそうではない。荒れるということの意味がまったくちがってしまっている。かつて荒地はメタファーだったが、現代においては、文字通り荒れ地としか言いようのない荒涼とした感じに満ちた風景がひろまりつつある。(p40

 荒廃とはなんだろうか。それは均質化ではなくて、「無–質化」とでも呼ぶべき事態である。感触であり質感は、私たちが手を伸ばして「何か」に触れるとき、そこから跳ね返ってくる「何か」という物の存在性・能動性・出来事性の印象である。そのように、何かがある、ということが感じられないということは、二つの場合が考えられる。すなわち、何かしらの物が存在しないという場合、また、それに触れ、質感を受け取る人間のほうに問題がある場合である。現代の日本社会においては、その両方が同時に進行しつつあるのではないか。物の存在と、その現れが貧困化しつつある。そして、それを感受し働きかける人間の能力が衰弱しつつある。

物の存在が豊かに現れてくることということの元型的なイメージは植物の種の芽吹きである。春には暖かな風と光へと、固い地面の中で耐えてきた種が芽をだし青々と繁茂していく。それは不思議で面白い。種は地味な色をしていて、固く匂いも味もそれほど豊かではないし、互いにそれほど異ならない。にもかかわらず、そんな種の殻を突き破って出てくる青々とした芽はやがてカラフルな、多様な花を咲かせ、みずみずしい果実を実らせる。花は美しいし、地味な種の見た目からはわからない、多様な変化を遂げる。芽吹く種の面白さとは、変化の面白さであり、結末がどうなるかわからない多様な可能性の面白さである。さらに、そういう自然の営みの全体があたかも大きな意思によって行われているかのように感じられる。それは宗教性の源泉であって世界の莫大さを感じさせる。春にそこから芽が出てくるところを見た人は、大地に、芽を出させる力の潜在を感じる。

 芽吹かせる力、可能性の潜在、それが空間の豊かさではないか。大地に感じるような可能性の潜在としての空間の豊かさ、それは具体的にはどのようなものであるだろか。

 私は以前から、京都や高円寺のような街に憧れていた。京都と高円寺は全く違うではないかと考えるひとも多いかもしれないが私は両方の町に共通点を感じている。京都は景観保護の観点から、コンビニエンスストアなどの商業施設に対する外観規制が設けられている。夜間の照明を落とすこと、そして、色合いも街並みに溶け込むような地味なものを選ぶことなどである。それが街の全体的なデザインの統一性をつくっている。また、私は京都大学の吉田寮に宿泊したことがあるのだが、その際、寮とその生活文化から独自の気風を感じた。吉田寮では日本でもほとんどなくなった自治運営が依然継続されており、耐震的には非常に問題があるのだが、木造の老朽化した建物での生活を守っていた。京都大学のキャンパス周囲には立て看板が並び、大学の敷地とその周囲の街との境界が曖昧になって広がっているという感覚をもった。高円寺もまたある建物や敷地、施設とその周囲の環境とが分節・切断されることなく連続している、見る人にその境界が淡く滲んでいるような印象を与えるという点で、似ている。さらにいずれの街も、商業的な大規模の施設がなく、細い路地道が残されていることが共通している。

 対して東京駅周辺のオフィス街は、交通量の多い太い道路の左右に高いビルが立ち並びその地上階はほとんどすべて商店である。それは見る人に「整然たる威容」を与える。夜間、路上からきらびやかな摩天楼を見上げると、自分の孤独さ・卑小さを思い知らされるようだ。そんな街は整っていて美しく、透明で無国籍で清潔である。しかしガラスと鉄とアスファルトの世界は、人間が生きるのに十分な条件を与えない。そこには決定的な何かが欠けている。軽やかで快適ではあるのだが、どうも落ち着かない感じがする。

 

京都や高円寺には日本橋にないものがある。それは暗がり、隙間、汚れ、袋小路であり、老いや病や貧乏や死である。ショーウインドウを通しては見えないものがある、館内アナウンスを通しては聞こえないものがある。それはおそらく、霊的なものを筆頭とする不合理で非効率なものであるとわたしは思う。それらを通り抜けるときに何かが死んでしまって元には戻らない。たとえば、日本橋で迷子になっても、孤独を覚えることはあっても、異世界に迷い込んでしまったのではないか、もうもとの世界には戻れないのではないかというような恐怖はない。地図上のどこであるかはわからなくても、地図上のどこかであるという信憑はまったく揺らがない。京都や高円寺では、「あるいはここは地図上のどこでもない場所であるかもしれない」という不安に襲われることがある。それは、合理的客観的な既知の世界からはみ出す場所や存在との出会いである。ないはずのところに迷い込み、地図にあるはずの場所へとたどり着かないのだから、それはその瞬間においては真の意味で未知の、寄る辺のない経験である。それはなんの保証もないために底抜けに恐ろしいが、同時に開放感を与える。新雪に足を踏み入れたときの緊張と達成感に似たものがある。

 京都や高円寺にあり、日本橋にないもの、それが未知の可能性の潜在であると考える。「ここは地図上のどこかであるはずだ」という信憑と「どこでもないところ」を歩く緊張とを対比しているが、これは今日の社会の様々な場面で見受けられる。いま、あらかじめ用途が決定されそれ以外の利用を認めない場所が増えている。しかもその根拠は多くが安全のためである。

 例えば公園ではキャッチボールは危険であるから禁止であり、野宿も認められない。早稲田大学のキャンパスも同様である。かつて大隈重信像前のスペースは立て看板や、ダンス合唱等のサークル活動の場であったが、現在はただの通路と化している。集まって対話をしたり演説をしたり昼食をとったりすることは「動線を塞ぐため」即座に警備員に解散、撤去させられ禁止されているのである。キャンパスの任意の場所においてサークル活動をすることは許可されていない。サークル活動がしたいなら「サークル活動のため」として作られた学生会館に行けばよい。学生会館にサークル活動が縮減、限定されている。さらに学生会館においても、施設利用の厳粛な管理が徹底され、飲食禁止、横になる行為の禁止原則が設けられている。

 街中の施設や場所にとどまらず、家族が集うお茶の間のテレビからWOWOWのようなマルチチャンネルへの細分化、棲み分けも同様の傾向だろう。確かに、チャンネルはたくさんあるのだが、チャンネルを越えての交流は恐ろしいほどに窒息させられてしまっている。ショッピングモールのように、ものすごい人数の人間がいるが、それぞれが自閉している。

 私は、現代日本社会に対して強い閉塞感を抱いている。それは社会制度が不合理で頑迷で非効率で抑圧的であるために私の足を引っ張るからではない。そうではなくむしろ、それが十分に合理化、効率化、無菌化、文明化、客観化、舗装化されているために、歩きやすすぎるからである。すべてがすでにわかっている。目の前の場所や出来事や存在は全体の部分として構成されている。あまりにも機械化された世界である。肩書きをもたない人間は存在を許されない。所属を明らかにしないことには通行を許可されない。誰もが誰かの部下であり上司である。目的をもって植えられる花壇の花は水道水を注がれ肥料を与えられるが、道端の名もなき雑草の花は引き抜かれ無意味な塵として排除される。人間がやってくる前からあった河はコンクリート塀に覆われ、高速道路の陰になっている。目抜き通りには新しいビルが建つ。飲食店が60店舗も入り映画館まで出来るそうだ。高い集客力が見込まれ街はさらに発展するだろう。

 何かが転倒している。たくさんのテナントが入っても、なにか満足できない。何か出来事が起きそうだという印象が持てない。オープン時には宣伝のために芸能人が遊びに来るイベントを用意している?そうではない。「芸能」人としてはじめから用途が整理・操作された「断片」としてではない人に会いたいのだ。わくわくとした冒険の予感、芽吹いてくる可能性の歌声、そういうものに囲まれたい。花壇に蒔かれたのではない種が芽吹いてほしい、聞こえないはずの声に誘われて存在しないはずの小道を抜け異世界へと冒険をしたい。すでにそのように決められているというのはまっぴらごめんだというのである。

 ではそのような場はどのようにしたら作ることができるのだろうか…?