02 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

世界の無意味化、

世界が無意味化している。

何かが起こりそうだ、という「感じ」がしない場所が増えている



カプセル化

均質、フォーマット、電脳コイル

アスファルトをはがしてアスファルトを敷く

可能性が芽吹く「リスク」

「予測不可能性」という言葉の気味の悪さ


、『夏雪ランデブー』と『夏目友人帳』はいずれもそんな霊的な存在との関わりを軸にして物語が展開している。両作品の主人公は、普通の人と異なっている。周りの人間が聞こえない声が聞こえ、見えないものが見えてしまう。そのために周囲から浮き孤独である。私は、彼らのことがうらやましい、と思った。それはつぎの理由からである。

 私は以前から、京都や高円寺のような街に憧れていた。京都と高円寺は全く違うではないかと考えるひとも多いかもしれないが私は両方の町に共通点を感じている。京都は景観保護の観点から、コンビニエンスストアなどの商業施設に対する外観規制が設けられている。夜間の照明を落とすこと、そして、色合いも街並みに溶け込むような地味なものを選ぶことなどである。それが街の全体的なデザインの統一性をつくっている。また、私は京都大学の吉田寮に宿泊したことがあるのだが、その際、寮とその生活文化から独自の気風を感じた。吉田寮では日本でもほとんどなくなった自治運営が依然継続されており、耐震的には非常に問題があるのだが、木造の老朽化した建物での生活を守っていた。京都大学のキャンパス周囲には立て看板が並び、大学の敷地とその周囲の街との境界が曖昧になって広がっているという感覚をもった。

高円寺もまたある建物や敷地、施設とその周囲の環境とが分節・切断されることなく連続している、見る人にその境界が淡く滲んでいるような印象を与えるという点で、似ている。さらにいずれの街も、商業的な大規模の施設がなく、細い路地道が残されていることが共通している。

 たとえば東京駅周辺のオフィス街は、交通量の多い太い道路の左右に高いビルが立ち並びその地上階はほとんどすべて商店である。それは見る人に「整然たる威容」を与える。夜間、路上からきらびやかな摩天楼を見上げると、自分の孤独さ・卑小さを思い知らされるようだ。そんな街は整っていて美しく、透明で無国籍で清潔である。しかしガラスと鉄とアスファルトの世界は、人間が生きるのに十分な条件を与えない。そこには決定的な何かが欠けている。軽やかで快適ではあるのだが、どうも落ち着かない感じがする。

 京都や高円寺には日本橋にないものがある。それは暗がり、隙間、汚れ、袋小路であり、老いや病や貧乏や死である。ショーウインドウを通しては見えないものがある、館内アナウンスを通しては聞こえないものがある。それはおそらく、霊的なものを筆頭とする不合理で非効率なものであるとわたしは思う。それらを通り抜けるときに何かが死んでしまって元には戻らない。たとえば、日本橋で迷子になっても、孤独を覚えることはあっても、異世界に迷い込んでしまったのではないか、もうもとの世界には戻れないのではないかというような恐怖はない。地図上のどこであるかはわからなくても、地図上のどこかであるという信憑はまったく揺らがない。京都や高円寺では、「あるいはここは地図上のどこでもない場所であるかもしれない」という不安に襲われることがある。それは、合理的客観的な既知の世界からはみ出す場所や存在との出会いである。ないはずのところに迷い込み、地図にあるはずの場所へとたどり着かないのだから、それはその瞬間においては真の意味で未知の、寄る辺のない経験である。それはなんの保証もないために底抜けに恐ろしいが、同時に開放感を与える。新雪に足を踏み入れたときの緊張と達成感に似たものがある。

 私は、現代日本社会に対して強い閉塞感を抱いている。それは社会制度が不合理で頑迷で非効率で抑圧的であるために私の足を引っ張るからではない。そうではなくむしろ、それが十分に合理化、効率化、無菌化、文明化、客観化、舗装化されているために、歩きやすすぎるからである。すべてがすでにわかっている。目の前の場所や出来事や存在は全体の部分として構成されている。あまりにも機械化された世界である。肩書きをもたない人間は存在を許されない。所属を明らかにしないことには通行を許可されない。誰もが誰かの部下であり上司である。目的をもって植えられる花壇の花は水道水を注がれ肥料を与えられるが、道端の名もなき雑草の花は引き抜かれ無意味な塵として排除される。人間がやってくる前からあった河はコンクリート塀に覆われ、高速道路の陰になっている。ここにいた霊たちはどこにいったのだろう?私も耳をすませば彼らのように、聞こえないはずの声に誘われて、存在しないはずの小道を抜け異世界への冒険を始められるのだろうか。

健康でなければならない

保険、健康増進

無菌化

医療と介護

ターミナルケア、尊厳死、如何に死ぬべきかについて、答えられない

保険会社が始めた「ラジオ体操」

ひとりの「声」が多くの人を統制する

身体統制が精神の統制を実現する

実際、戦前、「ラジオ体操」のあとの番組は天皇のお言葉を伝える番組であった


保険とは、リスクの管理だ

リスクの入り込む余地を最大限排除する

失敗することを許さない

病や老いを許さない社会

アンチエイジング、美容

病人を、老人を選別排除する

「メタボリックシンドローム」という前‐病人、税金のかかる金食い虫予備軍規定

悪所を解体する

野宿者を排除する

性風俗街を解体する

広場や公園を商業施設へと変える


物語の冒頭、本作品の主人公、荻野千尋は新しい街に引っ越してくる。父親の運転する四駆自動車の後部座席に寝転がり、むすっとした表情をしている。両親に車窓から転向先の小学校を見るように促されても、まったく興味を持つことが出来ない。

 アニメーションの語源はラテン語で魂を意味する「アニマ」という言葉である。だからアニメーションとはあたかも生命を持つかのように活き活きと動く連続する絵のことだ。千尋はそんなアニメの主人公には似つかわしくない、生命力の低い「弱った少女」である。千尋はどうしてこんなに弱っているのだろうか?千尋はどこにでもいるような、現代に生きる普通の小学生である。千尋がいま、特に元気がないのは、やはり引越しによるものだろう。まずは引越しについて考えてみよう。

 私が始めて引っ越しを経験したのは、三歳になったばかりの頃のことだった。季節や時間などはっきりとした状況はわからないが、新居において一人で留守番をしなければいけないとなった際に、「人間は本態的に孤独であり、誰も自分のことを見てはくれない、自分が自分自身の主人であり、自由と責任というものがあるのだ」ということを、わけのわからない底抜けの恐怖として味わったことをよく覚えている。

 生まれながらに住み続けた慣れた土地を離れ、知らない人と知らない風景の中へと入っていかなければならないということは、人間にとって一つの死のようなものとして現れるのではないだろうか。引っ越したばかりの土地は、電車の車内のように名前も肩書きも性格も分からない人々で溢れている。引っ越しにおいて私たちは喪失の感覚をもつが、そのとき何が失われるのか。私たちは人間や土地に対する「関係」を失う。「関係」には二種類の現れ方があるように思う。

 第一に、「名前」である。知らない土地では、当たり前だが、誰も自分を知らず、自分の方でも誰をも知らない。周りの人と無関係であるから、名前を呼んだり呼ばれたりする機会が失われる。人間関係は、名前を呼んだり呼ばれたりする経験として現れる。



第二に、「顔」である。人間や土地との関係は「顔」として経験される。私たちは自分を取り囲む風景を無心に客観的に眺めているのではない。行きかう人々やそれぞれの土地にはそれぞれの生活・文脈・意味があり、独特の表情のようなものが私たちに向けられているのである。例えば、あのベンチでサンドウィッチを食べた、とか、あの木で木登りをしていて転落したとかいう経験があれば、ベンチに意識を向けたときサンドウィッチの味を思い出したり、木に意識を向けたとき膝小僧からしたたる血液の色・匂いと滲む痛みが伴ったりする。見知った顔を街中で見つけると、心が躍り、明るい気持になる。引っ越しは私たちの生を彩る出会いや、街並みの豊かな意味をみんな失わせる。私たちは知らない土地において、孤独である。顔もまた、名前のように、自分ひとりでは確認の出来ないもの、必要のないものだ。私たちはひとりきりでは、自分自身の顔をもたない。自分自身の顔は他者の目や、鏡など、外部の対象を経由することでしか、たどり着くことが出来ない。

 名前と顔とは、私たちの「アイデンティティ」を構成する不可欠の要素である。「アイデンティティ」とは「この同じ自分」という語に由来するが、自分が自分であり続けること、他の誰でもないかけがえのない自分であることが、引越しによって困難になる。

 引越しとは、アイデンティティ、顔と名前を失う経験、自分自身を失う経験である。千尋は、自分自身を失いつつある。湯婆婆に名前を奪われる前に、すでに、名前を失い、自分を失っている。

顔や名前から成るアイデンティティというものについてもう少し掘り下げてみよう。先に簡単にみたように、顔や名前というものは決定的に自分自身の核のようなものであるのに、自分自身では直接確認できず、「他者」に見られ呼ばれるばかりである。このことは、とても皮肉ではあるけれど、私たち人間が自分というものを(それはまさに自分であるのに、)自分ひとりでは確立することができず、他者との関わり合いの中で、他者に認めてもらうことによるほかないことを意味している。

先に、引越しによって関係が失われると書いたが、関係が、この「他者」である。ずっと同じ他者と関係を持ち続けるのであれば、私たちは自分を不変の同一性としてもち続け安らぐことができる。引越しによって他者が変わると、自分が認められていいない振り出しに戻ってしまうのである。

 千尋が回復するためには、いや、引越しというはじめての喪失経験に適応するためには、新しい人間「関係」を構築し、改めて顔と名前、そして自分自身を創出する力を身につける必要があるだろう。



湯屋では湯が沸騰するように、人間の欲望を惹起し次から次に駆り立てる。欲望はどんどんと膨張し、市場が拡大し商品が溢れても満たされない。むしろ、食べれば食べるほど飢餓感が募るような、終わりのない苦しみへと変貌してしまう。

 沼の底は、冷たい沼である。湯屋において他者を傷つけ呑みこみ、際限なく拡大し続けたカオナシの欲望は、沼の底では地に足がつき鎮まっている。

千尋は沼の底で、彼女が異世界において培った新しい友情の証として、髪留めをプレゼントされる。みんなで紡いだ糸とは、関係性の糸である。髪留めには金銀財宝のような目がくらむような派手さはないが、小さく静かに光っている。千尋は、髪留めをもってもとの生活世界へと帰っていくことになる。

「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い」という言葉がある。資本主義経済市場においては人間は客か労働者としてしか存在することができない。けれども、世界は市場の外部を持つ。「等価交換」の原則をはみ出す関係性を私たちは持っている。愛と贈与である。豚は私利私欲の追求と蓄財の象徴である。贈与は対価を求めることなく、蓄えた財を他者にくれてやることである。両親が豚の中にいない、という答えは、両親は豚「ではなく」、自分が豚の子であることの拒否である。千尋はいまや、愛と贈与を知っている。



 ここで確認したいのは、まずは湯屋は他の世界から隔てられた場であるということだ。湯屋は生活世界からも、沼の底からも離れている。雨が降れば、あたり一面水浸しになり「海」になってしまう。湯屋はあたかも洋上に浮ぶ巨大客船のような閉じた場である。1602年に設立されたオランダ東インド会社は、継続的な資本を持った最初の株式会社であるとされる。東方への航海に対する小口の出資を広汎に募った、保険のようなリスク分散の工夫である。湯屋は投資を受ける船を想起させる。

 千尋がファンタジーアニメの主人公にふさわしくない、愛想のないくたびれた少女であるように、湯屋もまたファンタジーアニメにふさわしくない舞台である。湯屋を支配するのは、「働かざる者食うべからず」という労働中心主義的な論理である。湯婆婆は「働きたいものにはすべて職を与える」という誓いを立てて守り続けているが、その決めごとは「湯屋では職を持たないものは存在してはならない」という思考と一体のものである。湯屋には肩書きを持たない裸の人間は存在しないのである。千尋にとってすべての他者は、顧客かまたは同僚として現れる。

資本主義経済下の社会では、人は前近代的共同体の束縛から自由な代わりに孤独で匿名的な存在としてしかあり得ない。湯屋は資本主義経済の生理に支配された、共同体による庇護を失い、都市で労働力を売らなければ生活していけない空間である。その酷薄さ、元も子もなさは、心躍る非日常ではなくて、私たちが毎日あきるほど見ている「いつもの風景」である。
 市場は等価交換が根本的な原則である。市場に流通する商品の価値は明晰かつ判明であり、数量的に勘定することができる。市場では流通する価値が全てであるからシンプルであり効率が良い。けれども、まさにそのために、流通する価値が手に入らなければ何物にもなることができない。

私たちは社会に流通する「肩書き」や「資格」の獲得のために必死になるがあまり、反って生活を失ってしまう例を身の回りに散見することができる。今日いよいよ熱を増す就職活動もそれにあたるだろう。友人が大企業の内定を勝ち取ってきたが、自分はまだである。内定がなければ、生きていけないような、絶望を感じる。

でも、本当はそうではないはずだ。かつて吉本隆明が衝撃を受けたとして「泥棒して食ったっていいんだ」という言葉を紹介していたが、そこまでいかずとも、例えばある僕の友人は実家が新潟の農家だから、内定なんかもらえなくても最悪家で畑を耕せば食えるのだと言う。その話を聞いた時、生きる力とはこれではないか、と思った。

 話を元に戻そう。「等価交換」という原則は便利であり効率よく富を増大させる効果を持つが、人間の豊かな生のためには不十分である。