130917 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

バイト決まりました、飲食です、一生懸命働きます

この局面における主要な敵は、TOEICである


日本語学演習4000字

介護等体験アフターレポート

近代文学演習レポート


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芥川とカミュ

不合理な自殺と谷崎『幇間』

桜井

宴会芸、気味が悪い、お人よし、女に馬鹿にされたい

遊びと緊張、ゆらゆらと漂う

笑いと権力、『薔薇の名前』


生とはなんだろうか

実存と演戯

アイデンティティからフラクタルへ

全くの不条理、流れる力、掻き消えるゴースト


仮説、ホームズ的知性

持続可能性、脇役になること

不完全な誤ったこの世界と「私抜きの理想郷」とでは当の私にとってどちらが重いか


ラ・パリス、自明性、生きているから生きている

ドン・キホーテ、抒情的態度


ダーウィ二ズム

現実的なものは理性的であるか

規範性、形式性、身体の統治


無知な指導者と懐疑する神


飼い馴らすこととはなんだろうか

演劇

三島『仮面の告白』

ドゥルーズ『マゾッホとサド』


森村進『自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門』

大屋雄裕『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅』

大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか』

斎藤環『思春期ポストモダン』

マン『魔の山』

フロム『自由からの逃走』

デフォー『ロビンソン・クルーソー』

大塚久雄『近代化の人間的基礎』

堀辰雄『風立ちぬ』

『ゴドーを待ちながら』

『桐島、部活やめるってよ』

海老坂武『サルトル』

宮台『14歳からの社会学』

大塚英志『「おたく」の精神史』

三浦展『郊外はこれからどうなる?』

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』

関口安義『芥川龍之介』

水野和夫大澤真幸『資本主義という謎』

デューイ『経験と教育』

内井惣七『科学哲学入門』

斎藤成也『ダーウィン入門』

池内了『物理学と神』

小山慶太『漱石が見た物理学』


貧困と技術と戦争と美

オッペンハイマー的問題

わかってもらおうと言葉を尽くすつもりはない

二郎は誰の為に泣くのか

美しい姿を見せること、籠の中の鳥

美と犠牲

矛盾じゃないか、薄情じゃないか、エゴイズムじゃないか

時間を大切にすること、植物的時間、蒸気的時間

父がいない話

洋行、アキレスと亀

蒐集と過剰

役に立つことのすべてが戦争に回収される社会ではどのように生きるべきなのか

前線銃後の別のない全体戦争以後の世界


ピコ・デラ・ミランドラ、サルトル、ホッブズ、フロイト、ミル、ヒューム、カント

パスカル、ルソー


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完成を放棄する


保守とは、世俗に流通する偽の「現実主義」ではない。短絡的な権威主義・事大主義がかならず飛び付く「懐疑のるつぼをくぐらない現状肯定」という思想的怠慢、思考停止とは無関係である。ならば保守とは何か、考えてみよう。
さらにここでは、思考の杣道を辿ろうとする一切の知的存在が自己自身に課すべき、最低限の思想的手続きについても確認したい。


01保守とは何か

まず、「保守」という言葉は、どういう種類の言葉なのだろう。保守の対義語は「革新」である。保守は右翼であり、革新は左翼である。両者は対になっている。それらはどう違うのだろう。
結論からいうと、私は、両者の違いは、人間と自由についての判断の違いであると理解している。
人間は共同性から自由にしてもうまいこと生きていけるのかと問う。生きていけると考えるのが革新で、生きていかれないと考えるのが保守である。


性別・国籍・人種・職業・収入これらはすべて相対的なものにすぎない。真の保守はそんなものに自分の魂を賭けない。

それは単なる認識的立場(静的視座)ではなく「現実的」な運動的立場(行為基準)でなくてはならない。


02偽の保守粉砕

「思想は常識による裏打ちがなくてはならない。そして私の思想はその常識の範疇に妥当する。」これは、俺のうしろには「みんなの意見」という多数の力があるんだぞ、というくらいのつまらない強がりを吠えているにすぎない。「それ」が「常識」であると誰が判断するんだ?そんなことは論を俟たない、もちろん常識のないお前ではなく常識のある私だ?私は正しいから私は正しくお前は間違っているからお前は間違っている、という子供だましの同語反復である。ほんとうに、思想の評価に「常識」を持ち出してくる人間のなかにまともな奴がいた試しがない。もう同じ顔をした馬鹿たちの相手をするのはうんざりなので、「常識」を好物とする連中の正体はなんであるのか、そして物事を考えるとはどういうことなのか、確認しよう。


「常識」を好物とする連中の正体はなんであるのか
バスに乗り遅れるな
常識主義の陥穽


吉本隆明はどこかで「己の拳を通じて表現できる思想以外を語るな」というようなことを書いている。私が稽古させて頂いている武道では「試合」は「死合」として嫌われる。演武の型稽古が基本であり、自分の技を磨いていくことに集中する。技には型がある。その型の通りに技を正しく繰り出せるようにすることが、技を磨くということである。正しく技を繰り出すことは、一見すると単に形をなぞることのようである。素人の眼には、その技というものがどうもつまらない易しいものに映る。けれども、稽古を数年続けてみるとわかってくる。同じように見える、素人の単に型をなぞる技と、先輩や先生の繰り出される技とには決定的なちがいがある。効く技かどうか


どうすれば効く技を繰り出すことができるのか、ここではつまびらかにしないが、効く技を繰り出していくためには「立ち方」の基本を身につける必要があることは言える。
武道の基本は立ち方である。立つことは人間の基本なのである。人間が二足歩行を始めたことが、事物の「手」への現れである「技術」としての扱いという関係性(道具的連関)を可能にした。道具・手段・条件・資源としての環境世界が私たちの前に現れた。

組み手は私たちの技が効くものであるかどうか験す。下段払いをされまくっても生意気な意見を放棄しないことを誠実さというのである。
反証可能性、私の正しさの限界はこの点にある、この条件こそが私の思想の弱点であると自ら曝け出すことをいう。
物事を考えるとは、そういうことである。