K先輩に、なぜイデオロギーが複数的でなければならないのか、問われて答えられなかった
唯一的なイデオロギーの「聖なる天蓋」に覆われた世界であっても、そのなかで批判が形成されうまく修正してやっていけるならそれでよいではないか?
その通りだとおもった
しかし、ぼくは「反抗」したい
なぜだろう?
答えられないが、そのヒントは「丸山による福沢」のうちにすでに提出されていた
『福沢諭吉の哲学』丸山真男
福沢の著作はほとんどが具体的な時事問題に対する所論であり、純粋な理論的な著作は『文明論之概略』しかない
『概略』の書き出しには「相対して(軽重の軽にたいして)重と定り(善悪の悪に対して)善と定りたるものを議論の本位と名く」とある
ここには福沢の全著作をつらぬく思惟方法があらわれている
福沢には全著作を貫く思惟方法がある
それはなんだろう
まず、意味を広くとれば「価値判断の相対性」ということだろう
福沢によれば、価値判断はそれ自体、孤立して絶対的に下せるものではない
そうではなくて必ず他のものとの関連において決定される
わたしたちに具体的に与えられるのは究極的な真理、絶対的な善なんかではなく、より善いものとより悪いものとの間の選択、より軽いもの、より明るいものなどなど、判断はつねに比較考量である
私たちの行動もその上に成立する
価値は事物に内在する固定的性質ではない
価値は事物がおかれた個別具体的な環境・関係・状況に応じ、それがもたらす実践的な効果においてはじめて確定される
価値判断はつねに相対的な比較考量である
なぜなら価値は事物にア・プリオリに内在する性質ではなく、事物がおかれた状況に応じてもたらされる実践的効果において確定されるものであるからである
時代と場所というシチュエーションを離れて価値判断(決定)はなしえない
一定の具体的状況が一定の目的を設定させる
目的との関連において価値判断はなされる
だから状況が変わりそれに伴って目的が変われば、同じ事物についての判断であっても当然変わることがある
だからそのつどの言説を状況から切り離してきて並べてみれば、互いに矛盾することがあってもおかしな話しではない
絶対的な事実の認識ではなくて、相対的な比較考量に由来する実践的目的に規定された、括弧つきの条件的な認識(ある観点からの観察)なのである
反対に、状況が変わらない限り、目的も、それを達成するための条件も、条件の意義もいささかも揺るがない
福沢には全著作をつらぬく「価値判断の相対性」という思惟方法がある。
具体的状況が実践的目的(議論の本位)を設定し、目的が価値判断をもたらし実現のための手段を導く。
*
しかし福沢の方法は、相対主義や機会主義ではない
客観的真理を否定したのではない
そうではなく、そうした「真理原則」は前もって静止し固定した存在として私たちに与えられているのではなく、個別的な状況のなかにたえず具体化されていく過程にほかならないのだということだ
功利主義よりプラグマティズムに似ている
あらゆる認識の、実践的目的による規定性を説き「事物が貴いのでなくて事物の働きが貴いのだ」として事物の価値を事物に内在した性質とせず、具体的環境への効果をもってはかるとする考えである
真理は不断に状況の中に具体化される過程である(経験的なものである)とする福沢の方法はほとんどプラグマティズムである
プラグマティズムは近代自然科学を産んだルネッサンスの実験精神の直接的継承者である
十九世紀以降の機械的決定論に埋没した科学主義を、ベーコンの伝統へ復帰することで、主体的行動的精神と再婚させようという意味をもっている
プラグマティズムは機械的決定論を否定する、実験的・主体的・行動的な精神である
「虎の尾を踏む」とどうなるかって?踏んでみればわかるじゃないか。
そんな「野蛮な」思考である
やってみなくっちゃわからないじゃないの!
実学の本質は、近代自然科学をその成果ではなくそれを生み出す精神から捉えた点に存する
つまり、福沢の「実学」とは「実験精神」である
真理は不断に具体化される過程である
真理を認識するためには「実験精神」を要する
*
流動化し相対化する価値のまえで、主体は強靭な精神を要する
人間精神の主体的能動性は尊重される
そのつどの状況に応じて判断を下し、それに応じて目的(命題または行動基準)を設定(定立)しつつ、しかもそのつどの(一回限りの)特殊な観点に溺れることなく、一歩高所に立って新しい状況が生起してくるのを待ち受ける精神的余裕を保留しておくこと
タフでなければ生きられないのである
主体的精神を欠く凡人は特殊状況的な観点にとらわれてしまって、そこから制約される価値基準を絶対化し、状況が変じて目的が失効した後も「金科玉条」として墨守する
これを福沢は「惑溺」という
字面からしていい意味に見えないが、やはりいい意味ではない
思考停止、精神の怠惰である
相対的であるはずのそのつどの特殊な価値基準を絶対化してしまうことを「惑溺」という
なお、惑溺に陥った人間が抱えている価値基準のうえに成立する行為は浸透力をもたず、環境に対する受動的な順応としてしかあらわれない
だから、公式主義と機会主義は相反するように見えるがその実どちらもおなじ「惑溺」である
(機会主義とはそのつど的な、つまり、日和見主義、である)
福沢に日和見主義を斥けさせた精神態度が同時に、金科玉条を掲げる抽象的公式主義への挑戦に駆り立てるのである
今日なら、ノンポリもセクトも、同一の「惑溺」である
*
さて、固定的価値基準への依存は「惑溺」の深さに、価値判断を不動に流動化する心構えが主体性の強さ(独立の気象)に比例するとして、人間精神のあり方は個人の素質や国民性の問題ではなく、時代時代における社会的雰囲気(気風)に帰せられるべき問題であった
人間精神のあり方は時代の社会的雰囲気による
社会関係が固定的・閉鎖的であれば、意識は「惑溺」に陥り、反対に動態的・開放的になれば、精神も闊達になる
あるいは、人間が価値基準を相対化する余裕をもてば社会は動態的になり、惑溺が甚だしいと停滞する
固定・沈着した価値基準を伝統とか習慣と呼び、それが自然のように私たちに効果する
人民の便利のために政府があるのに、いつか勝手に「威ある虎」のように歩き回って吠えている
そんなものは手段が自己目的化し転倒している
政府など「屏風の虎」ではないか
社会関係の固定化沈着化しているところほど権力が集中し、権力が集中するほど意識が固定化する
社会関係が自由になれば、精神も緊張を強いられる
そのなかで進歩していくし、自分を相対化して価値の多元性を承認し、惑溺から自由になれる
権力が分散し社会関係が複雑化し価値基準が相対化され観点が多元化していく不断の過程を、文明と呼び進歩とする
進歩とは事物の繁雑化に伴う価値の多面的分化である
福沢は社会関係の複雑多様化の過程をどこまでも肯定し祝福した
議論による進歩、その前提として、他説に対する寛容、パティキュラリズムの排除などの主張は、福沢の社交(人間交際)や演説討論に対する異常な熱意と相俟って、人々の交渉関係をあたうかぎり頻繁にし観点をなるだけ多様化しようとする、ほとんど衝動的なまでの欲求を物語っている
このあたり、強く共感する
僕が言いたいのは、これなんだ、とおもった
福沢は、奇妙にも「自由」をつぎのように定義する
自由は不自由の中に生じるものである
自由の気風はただ、多事争論のあいだにおいて存するものである
進歩は価値の分化・多元化の過程であり、善美で進歩的であったとしても専制の独占的原理による直線的排他的勝利ではない
自由の単一支配はもはや自由ではない
自由は不自由の際に生ず
「自由の弁証法」はイデオロギーによる画一的支配を否定する
多元的価値の前に立ち自ら考えることだ
*
極端主義は反価値と定めたものを掃討する衝動を内在するから却下
まとめ
・人間個人の精神における進歩
事物への「惑溺」から主体的「独立」へ
観点(パースペクティブ)は「固定性」から「流動性」へ
判断は「絶対化」から「相対化」による自己超越へ
一値論理による「極端主義」から多値論理による「寛容」へ
「習慣道徳」中心から「知性」中心へ
同一行動様式の「再生産」から試行錯誤による「不断の前進」へ
・社会関係における進歩
権力の偏重から多元的自由へ
社会関係は「固定単一性」から「複雑化」へ
「国家」(中央権力への価値集中)から「市民社会」(諸社会力への価値分散)へ
制度の虚飾性(自己目的性)から制度の実用性へ(道具化)へ
単一イデオロギーの支配から種々のイデオロギーの併存へ
画一的統制から対立による統一へ
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時代の原動力は時代の気風にある
気風を進化させるのは、つまり、すべての原動力は社会的交通(人間交際)の頻繁化である
福沢は政治形態(上部構造)と交通技術(下部構造)の発展のギャップの内に社会的闘争の発生原因を見た
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人生本来戯と知りながらこの一場の戯を戯れとせずしてあたかも真面目に勤めるこそ人間の本分である
人間を一方で蛆虫と見ながら、他方で万物の霊として行動せよ
どうせこの世は夢、他人なんて蛆虫だよ、と軽んじる中に、実践を可能にする余裕が生まれる
また、莫大な自然宇宙を前にした芥子のような自分の存在を真面目に引き受けるなかに、無力感をてこに成長する契機を見出した
人生を戯れと認めながら、その戯れを本気に勤めて倦まず、倦まざるがゆえによく社会の秩序をなすと同時に、本来戯れと認めるがゆえに、大局に臨んで動くことなく憂ふることなく後悔することなく悲しむことなくして安心するを得るものなり
責任ある現実世界も夢であり、夢の中から責任は始まる、のである