バカを化かすことは馬鹿にならない
演出を考える、といったのはそのような意味だ
それはビジネスマインデッドということなのかもしれない
「戦略的」ということなんだけど
他人を馬鹿にするひとは、いつか足元を掬われるようにおもう
というのは、大衆の原像、といってもいいし、安吾なら「人間」だとおもうけど、
それをつかまなくては、どうしようもないから
でもそれはなぜなんだろう
穏当なところでは、私たちの社会というものが関係性であるから
わたしたちが投げ込まれているこの世の中が関係の網だから
ここでの関係とは、全的関係ではなくて、部分的関係だ
道具的連関でもいいし、手段の王国なのかもしれない
では、そうではないような外部はあるのか
わからん
しかし、統整的理念としては、必要だ
*
以前、ゲーム脳批判というお粗末な議論があった
でもこれはほんとうにナンセンスであると思う
なんとなれば、まずもって、この生がゲームでないということは言えないからだ
デカルトの悪霊とか、あるいは端的に夢の場合と同様で、これがやはりゲームの世界であったということがありうる
「現実の人生にはリセットボタンがついていない」そうだが、これもあたらない
現実の人生も、リセット=死によって醒めることがあるし、反対に、ゲームのなかの主人公にとってもリセットなんて存在しない
いま、彼の生aを生きているゲームの主人公Aにとっては、リセットしてやり直しているBによる生bなんて存在しないからだ
AとBとのあいだには物理的同一性も心理的継続性も存在しない
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とてもきもちが落ち込んでいる
ぼくにも事情はよくわからない
彼は気分屋なのである