誰かが言っていた。
「まともな人間になろうと思うのなら、まずまともな生活を送ることからはじめることだ」
まともさ、ということをぼくは考える。
まともさ、まともさ。
うん。
結局、まともなことは概ねいいことだろう。
ぼくはまともな人間になりたいだろうか。
どうだろう、少なくともこれまではそんなことを考えてこなかった。
いや、嘘だ。
まともになんてなりたくないと思っていたかもしれない。
まともということを貶下していたんじゃないだろうか。
まとも、まともか。ぼくはまともになりたいだろうか。
20歳の誕生日を迎えたときぼくは自分は長く生き過ぎたんじゃないかと思った。
頭のどこかでもう直にみんな終るんだと思って生きてきたからね。
ぼくは臆病な人間だよ。
結局ぼくはこのとおり、のうのうと生きている。
ぼくはきっとこう言うだろう。
「ぼくは待っていたんだ。そのときが来れば、ぼくは抵抗しない、ただ受け入れるだけだろう。そのときはきっと近いはずだよ、そうさ。あとは時間の問題なんだ」
人生においてぼくが望んだような特殊な契機というものはそう多く訪れるものじゃない。
いや、皆無と言ってよい。
個人にとってある体験が特殊な契機として機能したと自覚されるのは、いつも事後的な回顧を迂回することによってしかない。
だからぼくのように固着した過去をこれ見よがしに嘆いて見せているうちにはけして劇的な転換というものは望めないものなのだ。
つまり、ぼくは真には己の生と向き合っていなかったということだ。
臆病は欠性的な仕方で示されるものなんだと思う。
20で自分は死ぬんだと夢想していた人間にとって、まともということの価値は僅少だ。
そうだろう?
何がいるっていうんだろう。
いや、主観的には必要なものなどほとんど何もない。
ここなんだ。ぼくのひとつの決定的な弱さというものはさ。
必要なものならある、あるけれどぼくの視界には映っていないのだろう。
そうだ、そんな認識の甘さこそ、ぼくの非常な弱さだ。
だがそこにはね、一切を溶かしてしまうような独特な心地よさがある。
ぼくはたしかにそれを深く愛していたよ。
というのも、ぼくはぼくの人生の半分という時間を、そんな乳のような靄の中を歩いて来たわけだからね。
そこには大事なものなんて何ひとつないのだ、と、一般論ではこうなるだろう。
でも、それじゃただの鏡写しさ。
経験的に言って、そんなことではいずれぺしゃんこになってしまう。
だからぼくはまともということを考えなければいけない。
否定するとは別の仕方でね。
ぼくはふと、なんて静かな夜なんだろうと思った。
いいね、なんて静かなんだ、と、思ったんだよ。
そう、これは重要なヒントだ。
そこには何かが欠けている。
ないということはただないということじゃない。
ときにないということはあるということでありうる。
ないものがある。
あるべきはずのものがない。
イエスはノー、ノーはイエス。
そのときぼくの言う「疚しさ」なる基調低音が止んでいた。
ぼくは回復していた。
*
これはうまく言語化できない種類の体験だ。
決定的な転回というものはいつも、ごく滑らかに、なんの徴候もなしに、「すでに」訪れているものだ。
確かなことは、風景が変り、ルールが変ったことだけだ。
でも、決定的に「それ」が変ったんだということは感触で分る。
気がつけばぼくはセルフ・コンフィデンスというものをまとっていた。
いつ以来だろう、ちょっと微妙にニュアンスの違う穏やかさがある。
でもそれは高慢というのともちょっと違うんだよ。
一般に疚しさの延長上に高慢は成立し得ない。
疚しさを隠蔽するか、あるいはさらに上位のルサンチマンを起動するかしない限りはありえない。
だがいずれにせよ、そこでは疚しさは根本的に解消されない。
出自に疚しさを埋め込んだ人間が疚しさなきセルフ・コンフィデンスを獲得したときそれはもう高慢ではないということを示している、とぼくは考える。
で、まあ、次にしなくちゃいけないことは、もうわかってるんだ。
セーブしてはならないってことだ。
わかってるって、そう急かすなよ。