なんか出てきたので。
問題です。この解答の問題はなんでしょう?
200
悪しき王の邪な挑戦に対して正義と人間への信頼をもってメロスが
立ち向かう「勧善懲悪」の物語だと思いました。人間を信じること
のできない王様には友人を人質にして一度釈放されるメロスがまた
戻って来るなどということはまるで想像出来ません。それでもメロス
は戻ってきました。それは王様にとってはありえないことです。利己
主義の立場からは説明できない「ありえないこと」を眼の前にして、
王様はついに考えを改めました。スピード感溢れる爽快な文体で、
易しく利他主義を教える素晴らしい作品だと私は思います。
175
「走れメロス」からは一転して、とても暗いお話だという印象を持ち
ました。同じ作者だとは思えないほどです。主人公の葉蔵はだらしの
ない生活を続け最後には自分で「人間失格」とまで言います。けれ
ども、私はむしろ葉蔵はきれい好き、潔癖症なのではないかと思いま
した。葉蔵は、極端に嘘が許せない性格だったのではないでしょうか。
だから本音と建前を使い分ける人間を信じることができなかったの
ではないかと思います。
250
まず率直に言って、だらしのない人だと思いました。支払いの
ことを考えないで遊びにお金を使ってしまっては、後で大変な
ことになるだろうことは私にだってわかります。それができない
のは太宰が後先考えない無責任な人だからだと思います。ただ、
そう考えると、気になる言葉が出てきました。文章の最後にある、
壇一雄に向けて言った「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」
という言葉です。太宰はどうしようもなくなったところでやっと
お金をどこかで借りられないかと探しはじめますが、そんな受動的な
人がこんなことを考えているのはなんだかちぐはぐなような気がします。
425
「人間失格」と小説「太宰治」を読むと、太宰はメロスのように
素直で単純に正義や人間への信頼を持っている人ではないことが
わかります。「走れメロス」を初めて読んだ人は私のようにまず
熱血漢のメロスに感情移入するでしょう。でも太宰は自分に、
メロスではなくてむしろ王の方をこそ重ねていたのではない
でしょうか。というのは、王が人間のことを信用できないことが
「走れメロス」の物語の発端だったからです。恐らく太宰は
「人間失格の葉蔵はもう一度人間を信用することができるか」と
考えたくて「走れメロス」を書いたのだと思います。では答えは
どうでしょうか。私は、王は人間を再び信用することができたの
だと思います。メロスとセリヌンティウスの抱擁を見て、王が
顔を赤らめたのは、自分が人間不信に陥っていたことを恥じた
のだと思います。恥じているということは、その人はもう人間不信
ではないということです。人間はたとえ自分の死がかかっても
他人を信用するのだということを見せ付けられて、王は人を
信じないではいられなくなったのだと思います。