「本音と建前」という言葉があります。
葉蔵が理解できなかったのは、たぶんこのことじゃないか。
経験的には、ぺらぺらと本音を話していては世の中を渡って
いけないことは明らかです。
他人と付き合うには本音を押し殺して余所行きの建前で着飾って
微笑んでいなければなりません。
葉蔵はこうやって本音つまり本当の自分の考えであり感情で
あり欲望を直視することなく、嘘のこと、インチキなこと、へつらい
の建前を使うことが我慢ならなかったのです。
これは論理的な主張であるというよりも、生理的な嫌悪感、反発感
であるでしょう。
耳に心地いい建前ばっかり言ってにこにこしている巷間に溢れる
善意の人々が、葉蔵には気持ち悪くて仕方なかった。
しかし、また一方で葉蔵はたしかに何かを求めていました。
ただ、それは何かであって、しかしほとんど何ものでもないようです。
というのは、こうやって自分が人間的な建前の世界に馴染めない
ことに悩むということは、人間に興味があるということであり(興味が
なければそもそも悩む必要がありません)、またはじめからお金も
地位も美貌も人気も手に入れることができる立場にいた葉蔵に
とって、手に入らないことに悩まなくてはいけないものなんて、
まるでないかのように見えるからです。
葉蔵が欲しかったのは、お金でも地位でも美貌でも人気でも
ない、これはとても重要な指摘です。
それらのものは自己責任伴う独立的自律的主体的行動を通して
手に入れることができます。
つまり、葉蔵は、普通の意味において手に入れることのできない
ものを求めていたのです。
どんなに頑張ってもそれは手に入れることが出来ない。
だから、酒に女に薬に、葉蔵は狂ったのです。
オーガズムが全体性を錯覚させてくれるのはほんの数秒にすぎない
のですけれどね。
では、ほとんどあらゆるものを手にした葉蔵であっても、手が届か
なかったものとは何であるというのでしょうか。
それは、愛でありリスペクトです。
これだけはどうしても自分一人では手に入れることは出来ません。
それはたしかに「私」には手に入れることができないものです。
愛とは「他者の愛」、すなわち「他者への愛」であり「他者からの愛」
であるからです。
簡単に、「他者」は「私」ではない者のことです。
さて、では、如何にしたら愛なるものを得ることができるのでしょうか。
「人間は自分が欲するものを他人に贈与することによってしか手に
入れることができない」
葉蔵は他者を愛さなければなりません。
では、人を愛するとはどういうことなのか。
かつてジョン・F・ケネディは民衆に向ってこのように呼びかけました。
「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが
あなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。」
これに習えば、
あなたの恋人があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが
あなたの恋人のために何ができるかを問おうではないか、という
ことです。
愛とは、この人は一体どんな人なのかしら、何をして欲しがっているの
かしら、もっと知りたいわ、ということに他なりません。
「人間の欲望は他者の欲望である」
そもそも、葉蔵の苦しみというのは、人間における本音と建前との
不一致にありました。
このことは、言い換えれば、人間は尽きない欲望をもっているという
ことです(欲望が無限であるために現実と相反するのですからね)。
葉蔵は欲望が怖かったんだ。
欲望を恐れ、でも、欲望に近づかないではいられなかった。
葉蔵は、自分のことを「人間失格」だといいます。
でも、ぼくはそうは思わない。
葉蔵は、すぐれて人間的であったと思います。
むしろ余りにも人間的にすぎたんだ。
したがって、葉蔵の話を踏まえて、今一度人間であるということを
見直すとき、「人間であるとは人間失格であるということだ」という
逆説的な定義が導出されます。
人間失格の上にしか、愛はない。
葉蔵、それが人生ってやつだよ。