本稿は以下の記事の続きです。
まだ読んでいない人はぜひ読んでね。
□どうして君はイケメンになれないのか?
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ぼくは「イケメンじゃあぜんぜんダメなんだぜ」と言って
いるのでした。
では、まずぼくはそのことを誰に向って話しかけているの
でしょうか。
声を張り上げてそんなことを言おうとするのだから、少なくともぼくは
自分の言葉が無駄になることを望んでいないはずですよね。
ならば、ぼくはきっと、「その言葉を投げつけて効果のある人間」に
向って話しかけようとするに決まっているのではないでしょうか。
「ぼくは誰に向って「イケメンじゃあダメなんだぜ」なんて言っている
のか?」という問いの答えは、「その言葉を投げつけて効果のある
人間」であるということになります。
では、「イケメンじゃあダメなんだぜ」という言葉を受けて何かしらの
影響を被る可能性のある人間とは誰でしょうか。
影響を被る人っていうのは、たとえば「かちん、とくる」とか、なんでも
いいんだけど、何かしらの反応をとってくれる人です。
それは、「イケメン」という言葉が一定の力を持つと信じる人間である
でしょう。「イケメン」という言葉にまるで興味のない人に対して
「イケメンじゃダメ」と言っても「蛙の面に水」であるに違いありません。
そして、「「イケメン」という言葉に力を見る人間」とは、
「イケメンについて語る人間」です。
それというのは、信仰もまた思考の効果であり、思考とは文体、語りの
ことであるからです。
では、「イケメンについて語る人間」は誰か?
これは簡単です。
イケメンについて語るのは、語らないではいられない人間は、
「イケメンではない者」です。
やんややんやうるさいのは状況に不満のある人間だけです。
もちろん、ぼくも例外ではありません。えへへ。
「「努力」を巡って、補考。」でも「品性」について同様のことを考え
ました。
* * *
で、「品性」について。
ぼくとしても大変残念なんだけれど、一般に、「上品になれよ」っていう
ことを上品な人間が下品な人間に対して「教導訓育」してやることは
ありえない。
というのは「上品というのは、それ自体で満足していること」とするならば
上品な人間は状況に全く満足しているから、それを改めて語るなんてこと
をしないから。
「上品」、「下品」っていう言葉が必要なのは、下品な人間だけだ。
というわけで、ぼくもまた下品にして「鮮仁」な人間なんだな。
□「努力」を巡って、補考。
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10516264579.html
* * *
ですから、ぼくが用があるのは、「イケメンではないやかましいお前」で
あったことがわかりました。
イケメンという言葉の周辺には、肝心のイケメンはひとりもいないのです。
さて、短いですけれど目的は達せられました。
しかしイケメンについて語る、ということは、「イケメンとはなんだったのか?」
という物事の核心を考えなければなりません。
別にそのことを考えてみたいと思います。