kitsonから考えてみる。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

喫茶店の窓から行きかう人々を眺めながら、少し考えていた。

kitsonのバッグが流行ってるよね。

キラキラでペカペカで側面にkitsonって大書きしてある奴。

いや、クセがあって結構面白いと思うんだけどさ、でもぼくは

こういう風にも思う。


もう少しして、kitsonがみんなに飽きられちゃったとするでしょ。

そうするともうあの「キラキラでペカペカで側面にkitsonって大書き

してあるバッグ」を肩にかけて出かけたらさ、「私は流行遅れです」

って宣伝して回ってるようなことになっちゃうなってさ。


つまり、「目立つ」ということの両価性(よいところであり、「同時に」

わるいところでもある、みたいなこと)がそこには表れている。


前もすこし書いたけど、

(□まだ誰も語っていないけれどたぶん国母さんが間違えていること

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10462993469.html

へい、ゆー。ちぇけら!)

ファッションってのは本当に不思議だよね。


みんな流行の先端に立ちたいと思っている。

流行の先端に立つということは「まだ誰も知らない奇抜なスタイル」を

とるということだけれど、でもそれは、「ファッション=みなが真似するもの」

でなければならない。

ただ奇抜なだけではいけない。なんていうかな、ヘンな言い方になるけど、

「みんなが慣れ親しんだ奇抜さ」でないといけないんだ。

だって、ただ奇抜な格好をしただけでは「おしゃれ」だということには

ならないからね。


「流行ファッション」のベタ(内側)の意味は「誰も知らない」ということ、

そしてメタ(外側)の意味は「誰しもが知っている」ってこと、縮めれば、

ファッションとは「誰も知らないけど誰もが知っている」ものだということに

なる。


でもこれはどう見ても矛盾している。

「知らないとは知らないということ」だし「知っているとは知っているという

こと」だから「知っているとは知らないということ」ではないし、「知らない

とは知っているということ」でもないだろう。

さすがに、これがおかしいのはわかる。


よくわからないね。


このことは、「考え」や「余人を以っては代えがたい人物」ということと

似ている。

「考え」の新しさというのは、まだ誰も知らないから価値があるということ

だったはずだけれど、でもみんながよくわかるものでなければ、それが

価値(意味)のある考えだということがそもそもわからない。

あるいは、「余人を以っては代えがたい人物」が如何に傑出した才を

もっているのか、どのように素晴らしいのか、ということは、余人(ただの人)

に理解できること、すなわち「凡的な才」でなければ、それが優れたこと

だということがもう認識されない。


「彼が何者であるかは彼が何を為したかによって決定される」という考えを

適用するならば、「今をときめくデザイナー」も「ノーベル賞受賞者」も「ユニ

クロの社長」も、「ただの人」になってしまう。

だって、そこで評価される「だれにもわかること」というのは「誰にでもできる

こと」でしかないからだ。


ぼくが思うにこの二つの考え、すなわち、すごい人をチヤホヤする視線と

「ただの人じゃないのよ」という冷めた視線は、どちらもある程度理があり、

ある程度素っ頓狂である。

おそらく、これらはどれも「言語と認識」の矛盾に起因する。

それは「人間」という現象がはじめから持っている根本的な矛盾だと、

ぼくは思う。


簡単に言えば、個々の人がいないと「みんな」はないわけだけれど、

「みんな」がないと個々の人(つまり、ぼくやきみ)もない、ということだ。