ジュウ年代の「声優論」のために | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

今日も梶原さんのブログを楽しく読む。


□論考|Golgi apparatus-陰浪日記-

http://ameblo.jp/syamisendayo/entry-10513526583.html



ここで試みられているのは「声優論」の構築だと理解した。

それでぼくはとにもかくにも、火急速やかに梶原さんの姿勢

への支持を表明しないといけないとおもった。


「声優論」、つまり声優を語ることばが大変重要であって、

しかも「今必要」だと考えているからだ。


後述する、とおもうけど「支持を表明」みたいな政治的なことがら

については、消極的コミットがたぶんぼくの取り得る「たった

ひとつの冴えたやり方」(未読だけどSFの道を歩みだしたんだぜ

っていうささやかなアピール)だとなんとなく思っているからです。


わかりにくくてすまない。


とりあえずここまでで理解しておいて欲しいのは、

ぼくは「声優論」を「自前(それはあるいはぼく一人で、ということ

ではない)」で編んでいかないといけないこと。

それから、「声優論」を語る立場へのコミットを「消極的」に選ぶのだと

いうこと。


とにかく話をはじめたほうがよさそうだ。


□勇気ある知性

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10514123995.html


何を考えるのか、どのように考えるのか。

日本の無思想とは思考のことではないか、という仮説があった。


□「手掘り日本史」を読んで日本の無思想を考える

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10499324300.html

□日本の無思想をデジタルに考えてみる。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10502895084.html


これはぼくのごく私的な問題であり、同時にここから、いや、ここだけが

普遍性への道であると考える。(クラインの壺ってそういうことかなって

ぼんやりと思う。)



□「大衆の原像」から始めること、あるいはサブカルについて(仮)

執筆中


ではそれはどのような実践でありうるのか。

それを考える。でもまあ、要はオタク批評の射程についての議論である。


□ジュウ年代の「声優」を考え始める(仮)

執筆中


各論に入る。まずは「声優論」をやる為に必要なものを考える。



ただ、飽きてどろん!という可能性もなくはない。

ぼくはそれがいちばんこわい。


おお、こわい。


※各記事が完成次第、この記事を再編集してリンクを張ります。

目次代わりに使えるかなーと。


「勇気ある知性」はあがったよん。

大衆の原像だなんだ、と入る前に

「吉本隆明ふぉーびぎなーず」と「悪人正機」は読み終えとかないと

筋が通らないね。

まあぐだぐだやりますが、ぐだぐだにこそ意味があるのです。

意思あるぐだぐだ。


以って諒とされよ!


いや、一回言ってみたかったんだよね。