さて、日曜日が終り。
とりあえず、口をひらく、ではなく、筆を執る、でもなく、
キーボードを全角にする、でいいかな。
「話す力」って知ってる?
しばらく人間と話さないと、話せなくなっちゃうっていう話。
物理的にはたぶん顎の筋肉量と、あと、顎を動かす動かし方
の練度?が衰えちゃうってこと、らしい。
それと似ているけれど、「書く力」ってのもさ、怠っていると
すぐに衰えていくもんなんだな。
そういうものなんだ。
とにかく、どんなにつまらないことでも、どんどん手を出していく。
ジャブ・ジャブ・ジャブ・ジャブ!
ジャブジャブ様、ジャバ、ジャバ、ジャバ・ザ・ハット。
そうしないと、口がくっついてひらかなくなってしまう。
いや、ボトルインクのふたが固まって、
いやいや、キーボードが錆びつきやがってさあ。
ん、プラスチックか。
ぼく、さ、根がおしゃべりなんだ。
だから、つまんないことでもなんでも、どんどん話していかないと
いけない。
状況の絶対性っていうかさ、そうしないではいられない。
わかっちゃいるけど、やめられない。
回遊魚みたいなもので、黙るともう参ってしまう。
マグロならぬサンマだね。
さて、自己紹介(=なんでもいい、自分語り)と、「根」ってことが
でた。
「根はいいやつなんだ、許してやれよ」
一般に、「タテマエの私」と「ホンネのあたし」とが、二層ある、
ということになっている。
「タテマエ」の仮面を剥いだら、真の自己が表れる。
でも、どうもそれがあやしいんだよなあ。
自己って、パーソナリティなわけだけど、パーソナリティの語源は、
ペルソナ、つまり仮面だよね。
仮面があんまり固くなるととれなくなる、というのはあるけど、
でも、仮面の下にほんとのあたし、なんて全然ないんじゃないだろうか。
って、鈴木晶先生が仰るわけだ。
ぼくもそう思う。彼が何であるかは、彼が何を為したかによって決定される、
それだけだと、ぼくには思われる。
内部に、真なる核がある、っていう考え方は、ひとつの神話にすぎない
んじゃない?
つまり、神話である、というのは、それによって世界をうまく説明できる
ときはそれを適用すればいいんだけれど、不調なときには、一度取り外して
みることも必要だってことだ。
そういうもんだ。
それをしてペネトレが、こいつは猫なんだけど、「クジラは魚である」って
言ったんじゃないかと思う。
つまりさ、「クジラはほんとうは哺乳類だ」ってことになってるけど、
それは、卵生じゃあないとか、お乳で育つとか、そういう内的な性質を
もって、「哺乳類」に分類されている。
だけど、ほんとうに問題なのは、一枚剥いだ「内部構造」ではなくて、
クジラを取り巻く環境であるとか、見た目、姿かたちが魚的であるとか、
そういう外的性質の方なんじゃ、ないの?
それって、どちらも、同じくらいに理があって、同じくらいに素っ頓狂だぜ。
一見わからない内部構造が大事なんだっていう神話は、すでにして
学問のごく一部分である、科学教的な、偏った見方だぜ。
見た目が問題なら、一見わからない内的構造についての「知識」の量的な
差に基づく権威構造は立ち上がりようがないからね。
ペネトレはそう言うんだ。
いや、言ってないかもしれないけれど。
じゃあ、面食いって、どうなるんだろう。
「人は心だ」って、すげえインチキかもしれないぞ。
…なんてね。