書くことについて。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

こんにちは。


ここのところ、ぼくは何か書きたいなぁと思いながらも

なんだかなんとなく書きあぐねていました。

もちろん、少しく忙しかったのもあるのだけれど、これには

もっと別の理由がありそうです。


最近、文筆家の大先輩たちの文章をいくつか拝読しました。


「「大先輩」って、きみは自分が文筆家のたまごだと思って

いるのか。」君はそう言うかもしれないね。

それは、半分イエス、半分、ノオ。


ぼくは書くことそれ自体がけっこう好きだし、これからも書いて

いきたい。そして、できればぼくにしか書けないものを書きたいと

思っている。

その点で、イエス。そう考えていいだろう。


でも、書き続けたからといって、それで大成するかといえば、

傍から評価をするなら例えば、それで飯が食えるか、といえば、

全くだめかもしれない。それはぼくにはぜんぜんわからない。

そういう意味でノオ。


それはそうでしょう。でも、ぼくにはぼくのことなんて、あまりにも

わからなすぎて、ここまでわからないと反って「私には才能がないから

決して大成しない」と確言することさえできない。

「絶対的にわからない」ことは、すばらしい成功にさえ開かれている。


戻ろう。

大先輩方、それは今回のぼくの場合は、ぼくが私淑する、神戸女学院

大学文学部教授の内田樹先生と、作家の高橋源一郎先生だ。

ここのところ、ぼくには先生が増えるばっかりだね。


両先生は、ぼくみたいなひよっこ(ピヨピヨ。)がこんなことを言っては

不遜だけれども、やはり文章が並みではない。

クリアカットな思考によって編まれた文章は読むものに清冽な印象を

与える。文章のリズムは音楽のように心地よく、知性が漲る文体によって

支えられた論理展開は躍動し、ぼくひとりでは到底たどり着けなかった

思考の高峰へと連れて行く。


そして、ぼくは愚かにも、自分の粗末な文章と両先生の優れたそれとを

比べてしまう。彼我の圧倒的な力量差は、千里の径庭がある(そりゃ

そうだ)。

ぼくはいくらも落ち込み、彼らの文章を、羨み、妬み嫉み、強く憧れる。


(いいな、あんなふうに考えられたら、あんなふうに書けたら、それは

楽しいだろうなぁ。)


しかし、こんなふうに、ぜんぜん違う世界の人間に対して羨望の感を抱き、

隔たりを埋めようとする態度自体は悪いものではない、と内田先生は

仰った。彼らとぼくとでは、生きた時代が違う(ぼくは昭和を知らない)。

見てきた風景、見ている風景が違う。

まずはほんとうに、ぼくらはぜんぜん違う世界の住人だ。


「互いによく似た集団内部での相対偏差」ではない度量衡を以って、

自らの力量を測り、資質の育成に臨む態度があれば、そうでない場合

よりも「手のつけようがないこと」を「手のつけようがあること」に変換する

能力(それこそが、タフでしなやかな知性というものである)を成長させる

ことができる蓋然性が高いであろう。ぼくは、そう思う。


「千里の行も足下に始まる。」これは老子先生の言である。


「きみ、圧倒的な力量差に打ちひしがれる暇があったら、筆を持ち少しでも

ものを書いたらどうだね?」


と、そのように考えていたら、またなんだか書けるようになっていました。

これからもがんがりまーす!