「どうして悪いことをしてはいけないのか?」と
「Why be moral?」とは、まったく別の問いではないか?
「悪いことをしない」と「よい」は独立している。
「よさ」を「悪いことをしないこと」と消極的に定義づけることは、
明らかに「よいことをすること」とする定義とは別の事態だ。
「よいことをせよ」がゴールデンルール。
「汝のごとく汝の隣人を愛せよ。」
これが穴だらけであることは言うまでもない。
まず、古典的な(古典なんだけども)道徳普遍主義がベースに
ある。
反例をひとつ。
「僕が君にキスする代わりに君も僕にキスしてよ。ぐへへ。」
これでもだいぶ抑えたんだぞ。
「悪いことをするな」がシルバールール。
「汝、己の欲せざるところ人に施すなかれ。」
これはだいぶクールだ。
例えば、「僕は就寝中に、自分の部屋にバケツいっぱいのゴキブリを
蒔かれたら敵わないから、君にもしない。」
ただ、シルバールールは、大きな共同体を解消してしまうんじゃないか
と思う。フィルタリング権力と非常に相性がいいのだ。
「「幸運が三度姿を現すように、不運もまた三度兆候を示す。」
見たくないから見ない、気がついても言わない、言っても聞かない。」
そして…、救済が訪れる。
「啓蒙され尽くした大地は、勝ち誇った凶徴に輝いている。」
「監視社会」においては、監視する人と監視される人はおんなじ。
監視したいし、監視されたいから、一致しちゃうんだよね。
こうして、「よさ」を巡る問題が環境管理型権力論、「近代の超克」論、
(『「生命化するトランスモダン」への助走』もね)につながっていく。
ンマー当然の話だ。道徳ゲームとは、パワーポリティクスに他ならない
から。
アメーバの食作用は労働か?
この問いを考えていくには、どうしても、個と自己の違いを学ばなくては
いけないことがわかってきた。所有のないところに贈与はない。
贈与のないところに交換はない。
なので、例えばラカンの自己意識の発生論を学ばないといけない。
そこに、自己言及の困難が絡んでくる。だいぶ難解。