僕らの「世界」 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ⅰ.アルケー以前


01:どうして「ある」はあるのか。

この問いは無効。

あるが始まるところは、無から有が生まれる、のでは

なくて(観測するとそう見えるかもしれないけど)、

あるもないもない全体性が、自身が原因となって、

循環的な、卵割が生じる。


そうして、「ある」があらしめられる。


02:どうして「ある」にはムラがあるのか。

差異がなければ、「ある」内部に流動性がもたらされない。

これもまた、問われても仕方のない問いかと思う。

ムラがなくちゃエネルギーもない。

それらがなければ、ビッグバンもないものね。


ⅱ.生成と消滅、世界のねっこ


03:どうして生命は死から抗うのか。

膜の発生と、そこから生命が立ち現れてくること、

ここまでは、まったく偶有性のトリガーの為だと

考えていいだろう。それはいい。

だけど、その後、自己構築化、自己維持するアポロン的衝動は

どこから来るんだろう。

個は偶然による構成と共に、自らの喪失から抗おうとするもの

なんだろうか。それとも、死から抗おうとするものをこそ、

僕たちは生命と呼ぶのだろうか。


04:どうして僕たちは意味を求めるんだろう。

僕たちはどうしたって、意味性の地平を生きる。…というか、

「生きる」というような動的平衡=リゾームがフラクタルに

続いていくのが「世界」であって、もちろんそこにはほつれていたり

ねじれていたりしているところはあるかもしれないけれども、

結局はその意味の大地を旅していくことになる。ある意味では

全ては記号の戯れに過ぎない。内的なルールを受け入れなくちゃ

いけない。その中で、ゲームに参加していかないといけない。

それが、「人間」、それが「世界」。それが、語られる「存在」。


ⅲ.僕と君と彼の哲学


05:僕の哲学

真に哲学の名に値するのは、「僕の哲学」だけだ。

(「ひょろの哲学」ではないよ。)

僕たちは、好むと好まざるとに関わらず、声に抗えない。

知りたいという衝動にどこまでも呑まれていく。

自らを意味や価値から遠ざけてしまう。


06:君の哲学

「君の哲学」には二つのレベルがある。

ひとつは、僕の哲学に先行する、僕の、いや僕らの、互いに

対する挨拶だ。そこから、僕が立ち現れてくる、と思う。


公園で子供達が遊んでいる。僕は一人、遠くからそれを眺めて、

むすっと座っている。そこに、君が近づいてくる。君は僕に声を

かけてくれる。「ねえ、あそぼうよ。」僕はどぎまぎする。


ふたつめは、「僕の哲学」のあと、もう一度僕の意識は君に向う。

向わざるを得ない。なぜならば、僕というのはひとつの結節点で

あって、世界を(君を)引っ張ってきて、それを内部に折り返して

結び合わせたものだからだ。僕は、この個の為に、君のことを

想わずにはいられない。あまりにも利己的な話だけども。

でも、そこには、個の極限の様態が垣間見えていると思う。


07:彼/彼女の哲学

僕自身はあんまり興味がないのだけれども、君が彼のことばかり

あんまり話しているから、僕としても、彼にどのように向き合えば

いいか、ということを考えなくてはならない。どうなんだろうな。

悪い奴だったらぶっ飛ばそう。僕弱いけども、ぼこぼこのタコ殴りに

されることがわかっていたとしても、それでもやっぱり僕は同じように

ふるまうだろう。それは余りにもたやすいことだ。…ただ。そいつが

いい奴だった場合、僕はどうしたらいいんだろうか。