自己言及の困難というものがある。
簡単に言えば、自分はどういう人間なのかを自分で説明
しようとすると、つまり自己紹介をしようとすると、
困ったことになってしまうのだ。ひょろ、困っちゃう。
何がどう困るのか(誰が困るかはわかるし、いつどこで困るのかは
あんまり興味がわかない)。そこでは、
「自分はこれこれこういう人間なんですよ」という「自分」と、
「自分」について語っている<自分>とが分離してしまって、
後ろの方の<自分>については語ることができない、ということだ。
たとえば、
□01:「僕はみじめな人間です」と僕は吐き捨てるように言った。
という文。なかなか愉快だ。
ここで「みじめな人間」(=「僕」)という自己理解が語られている。
「語る」という動作が、ただそこに現象している。
「語る」という動作がただそこに現象している、だって?
2009ねん11がつ14にち
きようぼくはほんやさんにいつてマンガをかいました。ごひやくえんだま
をだしたらおねえさんがこぜにをくれました。でんしやにのつておうちに
かえつてきたらぼくのへやに「かたる」がたちあらわれていました。
とつてもたのしかつたです。
僕たちは、人よりいくらかは手先が器用であったとしても、そこらを漂う
「語る」を箸で捕まえてみせるなんてことは、絶対にできない。
僕たちは主体なき動作というものをうまく想像できない。
「語る」がただそこに現象しているなんてことは、たとえGoogleがGooに
買収されたってありえない。神賭けて、ない。
だから、「僕はみじめな人間です」と言われているのなら、必ずそこには
同時に、それを言った奴がいる。現にいる。
注目すべきは、「と僕は吐き捨てるように言った」というところ。
先の例では、自己理解を語る自嘲的な<僕>について、僕はまだ
語ることができていない。
「ちょっと待って。」
はいはい、何でしょうか。
「「と僕は吐き捨てるように言った」という部分を声に出したらいい。そう
すれば、あなたは<僕>について語ることができる。」
ザッツライト。全くその通りで、<僕>を「僕」の次元に落とし込めば、
「吐き捨てるように言う」みたいなカッコつけてる<僕>を笑うことが
できる。具体的には、先の文に括弧をつければいいのだ。
□02:「「僕はみじめな人間です」と僕は吐き捨てるように言った。」と
僕はにこにこと言った。
これで万事解決?いや、まだ語られていない部分がある。カッコつけてる
<僕>を笑っている<<僕>>が発生してしまっている。僕はまだ、<<僕>>に
ついて語っていない。
□03:「「「僕はみじめな人間です」と僕は吐き捨てるように言った。」と
僕はにこにこと言った。」と僕はあくび交じりに言った。
あとは、同じことが無限に続く。<<僕>>について語ったと思ったら、今度は
<<<僕>>>が発生してきてしまっている。カッコをこんなに乱射すると
ちょっともったいないと思っちゃうよね。貧乏性なんだ。
こうやって、自分について語ろうとすると、そこで取りこぼされる余剰
としての僕が、伸ばす手をするりとかわして、どんどん逃げていってしまう。
几帳面な人にはちょっと気持ち悪いかもしれないけど、まあ諦めるしか
ない。あるいは、語ることができないことがあるなんて、心配になってしまう
人もいるかな。先取りして言ってしまうと、それは、語ることなく、ただ示され
るという道もあるかもしれないから、あんまり絶望しなくていいと思うよ。
語られている意味と、語ることなく現れている意味とにとりあえずの名前を
与えておこう。
・語られている意味=オブジェクト・レベルの意味
・語ることなく現れている意味=メタ・レベルの意味
・語る僕/語られる僕に分離される前の全体的な僕=純粋意味
ちょっとださいけど、とりあえず、ということだ。
僕たちは、<この>世界を生きる。<この>世界が現実である、ということ
は、ただ、示されるものだ。それは、ただの信仰ではない、と思う。
あまりにも、迫真的で、切実に必要。
「諸王の王」、世界のねっこだと言っていい。
「それについては語りえない」と語ることは、非常に重要。
「世界のねっこについては、語りえない。」