僕たちが生きていくうえで、いくつか、必要なものがある。
ここでいう必要、というのは、欠くことができない、ということだ。
僕はたぶん、人間について、語っている。
兼好法師いわく、それはまずもって衣食住だ。
兼好法師の慧眼は、そこに、「住」を挙げたことだった。
住というのは、僕たちの言うところの狭義の住、というのでは
なくて、人間という存在にとっての、器、乗り物のことだ。
それは身体の外延であり、ひとつの流れだ。
否応なく、僕たちをここではない、どこか他のところへと
流し去ってしまう。
また、どこか僕の奥底の方、海の底の方へと向うと、
僕という存在もまた、一個の入れ物に過ぎない、まさに、
棚頭の傀儡のように感じられてくる。
…まだ、僕にはそれについてうまく語ることはできないみたい。
また、あるいは語りえないという確信も手にしていない。
ただ、それについて考えなくちゃいけない、ということの迫真さ
だけが、僕にのしかかってきているということだ。
重要さを立証はできない。ただ、なんとなく、渦に吸い寄せられる
というだけの話だ。これはもう、どうしようもない類のひとつの衝動だ。
情報はそれらがそれぞれに持つ毛色の違いのようなものによって
ある種の分類が可能であるかのように思われる。
具体的に言えば、それは、
文学/思想(政治)/宗教/哲学の別だ。
歴史的事実であったり、生物学的事実、といったようなものは、
たぶん、思想の問題だ。どの立場をとろうと、大した違いではない。
例えば、君がダーウィニズムを切り捨てても、別に僕はそれについて
特別な感想を抱かないと思う。いや、わからない。それは文学の問題だ。
カテゴリーの実在を論じ始めるとそれはその瞬間、宗教に堕す。
誤謬推理の一種であり、夢の中の暴力として処理されるべきものに
転化する。それをどのように処理するかは、思想の境域に含まれる。
これらの中で、最も価値や意味といったものから縁遠いのが、
哲学だ。ほとんど全然役に立たない。端的な衝動みたいなものだ。
純粋な哲学は「人間」を損なう。どろどろに溶かしてしまう。
もう一度、文学の政治的議論に戻ろう。
それは、何がしかの示唆を僕たちに与えてくれる。
だけど、他でもなくその物語を選択するとき、僕たちはどのような
倫理的態度を求められるのだろう。そこでは、考察は哲学的に
試みられる必要があるように思う。大上段の道徳を退けるために。
物語なくして人間は生きられないようにも思う。