『明快!一般詐欺学入門』 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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ⅰ. どうやったらウソがバレないか。


 詐欺師は人を騙す。詐欺の途上のどこかで必ず嘘をつく。

でも、嘘というのは本当のことではないから必ず本当のことと

食い違いを生じてしまう。したがってあらゆる嘘は必ず見破られる。


あらゆる嘘は常に、暴かれ、見破られへの過程として存在する。


一流の詐欺師が一流たるのはその嘘が見破られないためだ。

果たして、見破られない嘘は可能だろうか?

見破られへの過程は永続できるか。

カタストロフの到来=「嘘だッ!!!」をどこまでも引き伸ばせるか。



ここで、名探偵と完全犯罪の関係について想像してみよう。

名探偵はどんなトリックでも見破り、事件を解決してしまう。

犯罪者は、名探偵に出会ったときが運の尽きである。


では、名探偵のいる世界には完全犯罪はありえないのだろうか。

残念ながら、いや、ありがたいことに、完全犯罪は尚、可能的だ*01。


名探偵はどんなトリックも解く。

名探偵が求めさえすれば、それは解かれる。

反転させよう。

トリックは、名探偵がそれを解こうとしない限りは解かれないのだ。


つまり、完全犯罪は「事件そのものが発覚しない限りで」可能である*02。


では、詐欺師が嘘を見破られないためにはどうしたらよいのか。

嘘が発覚しなければ良い。

嘘はどういう状況で「発見」されてしまうのか。「発見」の性質を考えよう。

僕たちはどういうときに物事を「発見」するか。


それは、「違う」ときだ。一般的に、あらゆる要素と構成が「全部ずっと同じ」

とき、何かに気づいたり、発見したりすることはない*03。


したがって、究極的には、嘘が全部本物と同じときにはバレないのだと

いうことになる。まぁバレるも何も本物と全て同じならば、本物なのだから、

バレようもないのだけれど。


さて、ここまでの「嘘の発覚」についての考察を踏まえて、本稿の目的で

ある「一流の詐欺師のなり方」に立ち戻ろう。


究極的な嘘は本当のことを言うことと一致する/ぎりぎりしない。

ここに、「一流の詐欺師」という事態のミソがある。

一流の詐欺師はほとんど本当のことと同じことをしている。でも、詐欺師は

詐欺師である。やっていることは本当ではなく、飽くまでインチキなのだ。


嘘を限りなく本当のことに近づけるには「ほぼ同じ」になるよう努力すれば

よい。完全に同じだと本物になってしまうから、「ほぼ同じ」ということだ。


ⅱ.ウソを本当にする方法

 

 では、あることが本当だということはどういうことだろうか。

ここでは記号学的「価値」観を導入しよう*04。

ある価値は、他の全ての物事との関係の網の目によって構成

されるという考え方だ。


例えばフルーツの価値について考えてみよう。


リンゴはミカンでもブドウでもナシでもスイカでもないもの。

ミカンはブドウでもナシでもスイカでもリンゴでもないもの。

ブドウはナシでもスイカでもリンゴでもミカンでもないもの。

ナシはスイカでもリンゴでもミカンでもブドウでもないもの。

スイカはリンゴでもミカンでもブドウでもナシでもないもの。


「Aである」ことは「「Aでない」でない」こと、ということだ。

ここで僕たちは、価値を差異から生じる、と考える。


問題になっていた「本当」ということと結びつけよう。

あることが本当だというときその本当さ(価値)は、それ以外の

あらゆる物事との関係によって保たれている。

僕たちは今、嘘を本当のことにしようとしている。だから、「本当のこと」

を構成する実際の環境と同じ状況になるように努力する。

つまり、ある嘘と、「本当」を構成しているところの全ての物事との関係を

取り結べばよろしい。


他の全ての物事と関係を取り結ぶ、なんてひどく抽象的な話だ。

しかしもう少しこらえて欲しい。

僕たちは実践主義者だ。実際に、「一流の詐欺師」を志している。

僕たちは興味の湧かないキューピー三分間クッキングを見流す。

でも、その料理を実際に作ろうとしたら、材料や注意点をメモするはずだ。

「一流の詐欺師」についても、同じ話だ。メンドいけれども細かいところが

すごく気になる。


ここで、気になったのは「他の全て」というところだ。

どこまで関係の取り結びを広げたら、「他の全て」と契約したことに

なるんだ?


僕たちは時折本物を見やりながら、粘土をこねくり回してニセモノを

造っている。困ったら、本物を参照しよう。


もう一度「リンゴ」を考える。

リンゴは「ミカンでもブドウでもナシでもスイカでもないもの」だった。

例えば、リンゴのこの定義には、「パパイヤでない」、「ドリアンでない」

という文が欠落している。

仮にこの指摘が妥当なものであったとしても、それでも今の定義で、

とりあえずのところ、生活上は問題ない。

今のところ僕たちは、リンゴを「ミカンでもブドウでもナシでもスイカでも

ないもの」として、認識している。

八百屋さんに行って(もちろんフルーツパーラーでも構わないけれど)、

「「ミカンでもブドウでもナシでもスイカでもないもの」くださいな♪」と

頼んでパパイヤが出てきたら、それまで、そのそれを僕たちは潜在的に、

リンゴとして取り扱ってきたのだということが発覚する*05。


ここからわかるのは、「本物」の方だってだいぶ怪しいってことだ。

AはBでもなくCでもなくDでもなく…となっているとき、その「Bでも

CでもDでもない」という、指示されているAの、外部の範囲、

僕たちが「他の全て」と見なしている範囲を、「現実」と呼んでいるのだ。


通念とは異なって、「現実」というのは取り決めであり、思いなしであり、

ある意味で嘘でしかないものだ。

「Aである」というのは「現実」内のある役割について語っている。


以上から、「本物のAである」ということの本当さの奥底には、それを

支えるそれ以外の物全てと見なされるもの=「現実」(「世界」)という

思いなし、ある特殊状況的な信仰が横たわっていることがわかった。


ⅲ.一流の詐欺師になるために。


さて、本物だって本当は無根拠なもの、言ってしまえば嘘だったのだ。

これは僕たち詐欺師見習いにとっては朗報以外の何物でもない。


「本物」は、ある一つの嘘をみんなで承認することによって力をつけた、

「本当化された嘘」だった。


僕たちはそれに習って、嘘を「本当化された嘘」と同じように取り扱って

いけば良いのだ。

本物と嘘の境界とは、それが多くの人によって信じられているかどうかに

過ぎない。つまり、余りにも説得力のある嘘とは、もはや本物である。

僕たちが嘘を本当化するために、しなければならないのは、とても

簡単なことだ。


それは、自分でついた嘘を本当のことだと信じ込むこと。

嘘が嘘であることを忘れることだ。


そのとき、嘘は限りなく本当のことに近づく。…少なくとも、詐欺師が

一人でできる最大の努力とは、自分が騙されることである*06。



さて、僕は正直者だよ。





*01:可能的の「的」は、それが具体的には未だに発見されていないから、

確認できないためについている。なぜならば見つからないことが完全犯罪

成立の条件だったのだから。


*02:「事件が発覚しない限りで」という完全犯罪の条件については、

そもそも『ひぐらしのなく頃に(07th Expansion)』の作中で言及されて

いたような気もする。まあ、引用ってことでいいっす。


*03:ホームズも犬がいつもどおりワンワン吠えているときに、

わざわざ、「犬が吠えているのはいつもどおりである」ことをクールに

推理してみせることはないだろう。

参考:『見ることについて』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10368007847.html

また、推理や発見とは呼ばれないが、このように同じものを別のように

捉える感覚、当たり前の風景の中からある要素を引き出して別の文脈を

与える操作を「偽史的なまなざし」と呼ぶ。

参考:『反省、意味づけ/情報化+名づけ、忘却。』

(http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10272171604.html )

さらに、『反省、意味づけ』においては、「まなざし」と「名づけ」とがひとつの

連続する事態として語られているが、両者は別々に捉えられる必要が

ある。


*04:何かについての価値観ではなくて、言語学っぽい、「価値」の捉え方。

言語学ちゃんと学んでないので、正確じゃないかもしれないけれど、

とりあえず、何となくガリガリ動いてくれればそれでいいです。


*05:「「ブドウでもナシでもスイカでもリンゴでもないもの」くれくれたこす♪」と

言えば、たぶん…パパイヤをミカンと見なしていたことが発覚する?

*06:反対に、詐欺師個人での限界は、「本物化」を起動する、自分の嘘を

人が信じるかどうかという他者的な境域に関与できないということだ。

だから、詐欺を見破るのもまた簡単で、「ウソだね」って言えばいい。

そして、詐欺師自身に自分の嘘を思い出させることだ。