01私は正しい。跪け、私は正しい。
02あなたは間違っている。
なぜならば、Aという規範から逸脱しているからだ。
02´しかし、あなたは許された。
あなたの罪は贖われた。今あなたの前にはただ規範Aがある。
03「間違っている者」を間違っていると指摘することは
権威性を帯び、新たな抑圧を生むだろう。
なるほど、確かに、そのことを批判するのは困難である。
しかし、それを見逃すわけにはいかないのだ。
それに比べれば、素朴に「あなたは間違っている」と言うことは、
なんとたやすいことか。
いまや、Aなる規範は失効した。
そんなものは屈折した抑圧でしかない。
各人が力を求め、やがて忘れるところにしか救いはない。
04さて、この先の道のりは懐疑論には進めないだろう。
ここでは、ここまでのような限定的意味の批判は無効だ。
僕たちはあらゆるものを疑い、また、否定することができる。
解放はやがて、開かれた地平にたどり着く。
けれども、外への超越に終わりはない。
それはどこまでもどこまでも、上っていくことであるが、
しかしもはやどこまでも下っていくことと同じでしかない。
無意味性の業火はあなた自身の身を燃やし尽くすだろう。
一方で僕たちは、その終わりのない円環の内に、
生きなければならない。
だから、僕たちは少し工夫をする必要がある。
まず、その為に僕たちは、とりあえずその場に留まるための
足場を要請する。それから、どうすれば信じられるのか、
納得の条件を探しはじめる。
ここでは、疑うことは意味をなさない。なぜなら、これは、
信念でしかないからだ。しかし、ただの信念に、力はない。
それが、権威に立ち向かい、抑圧を許さないというのであれば、
力を求めるだろう。その力は、唯一、多くの人間の承認によって
のみ、付与されるだけだ。僕は、一人では、ついに納得の条件に
たどり着くことはない。それは外から与えられるだけだ。
だからこそ、僕は間違えることはない。ここでは、誰も、僕たちを
全面否定できない。僕たちを粉々に叩き潰す「問い」もまた、
僕たちを踏まえて、やってくるだけだ。
どうする、これは新しい抑圧の始まりか?