常識至上主義は去れ。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

えびにお返事です。


えびのコメントを確認しておこう。


それはきっと伝わらない

「君の文章を見ていると
日本語を分解して再構築しろと言われているみたいだ

あらゆる既成概念を無視して完全な記号として受け取れと

そう言われているようだ
残念だが20年生きて生きた私には“常識”があるのでそれを

捨て去ることはできない
“常識”のない君にできることとは思えないが
今度からはだれが見ても意味の通る文章でお願いするよ」



社会通念の総体を、常識と呼ぶことにする。

ここでは常識は一冊の書物のようなものとして

イメージされるかと思う。

常識はあくまで所与のものであり、僕らが意識的に何らかの

考えをそこに加えることはできないものとする。


常識には最高の価値がある。常識には含まれない、つまり、

非常識な考えや論理は、それ自体が正しいことをどれだけ

判明に証明されていたとしても聞いてやる必要はなく、また、

そのような非常識な考えを持った非常識人の意見には聞き

届けてやるだけの価値もないものであると仮定する。


今、えびはえびには常識があり、対する僕にはそれがないと

断じ、そして、僕に常識がないことはあまり好ましくないという

ニュアンスを含んだコメントを書いた。

常識あるえびは、それを持たない僕よりも優位に立つと言う。


さて、それでは僕はえびの指摘を全くそのまま受け入れることに

しよう。非常識人には意味の通らない文章しか書けないのだから、

公共圏からとっとと退場するのが礼儀、なんだよね?

それについてもまた、非常識人である僕の意見はどんなものであれ

聞き届けられる義務が常識人には発生しないのだから、反論する

労力を、僕は惜しむべきだろう。


しかし、この場から去る前に、僕にはひとつ確認しておかなければ

ならないことがある。


それは、本当に、えびには常識があるという見解が、広く一般社会に

浸透している考え、つまり、常識として妥当するのかということだ。

もしこれが常識として妥当しないものであるのならば、えびは非常識な

考えを主張した非常識人となり、君の意味の通らない話しは聞いてやる

価値がないということになる。


そうなると僕を非常識人であると糾弾する人間がいなくなる

わけで、僕が退場する理由もなくなる、というわけだ。


本当に常識しか口にしない人間は、「私は常識人だ」と言えない。

なぜならば常識しか言わない人間は、その人物のプロフィールが

常識化するほど著名になることがないからだ。


したがって、意見を聞いてもらえる全ての人間は非常識である。

非常識人は意味の通らない話しかできないのだから、

あらゆる意見は無意味だということになる。

そして、その中にはもちろん「常識には最高の価値がある」という

意見も含まれる。


「常識には最高の価値があり、対してそこに含まれない、非常識

な意見は聞き届けられる価値がない」は、自身を否定する。

これは、明らかに自家撞着をきたしている。


以上の議論から、僕は常識至上主義は不毛であると判断する。

常識には、絶対の価値はない。


確かに、多くの人にとって、常識は日常生活をストレスなくスムーズ

に送ることに多かれ少なかれ資することは本当だろうと思うけれども、

しかし、常識はいつでも僕らを守ってくれるわけではない。

常識至上主義者の意見ほど、聞き届けられるだけの価値のない

ものはないだろう。


僕は今、ちょっとおぼつかないかもしれないけど、「常識は絶対だ」

なんて嘘八百だということを示した。

だけど「どうして常識ではダメなのか」をまだ十分に示せていないと

感じている。この点は、まだ考えてみたいと思う。


さて、えびのコメントからとりあえず魔法を取り除いたところで、

どうして、僕がここまでひとつの言葉に引っかかりを覚えるのかと

いう疑問を解消しておこう。


そうだな、ここで使われている(隠れた)論理構造が、僕のトラウマを

えぐっているというのがその理由だろうと思うな。


二段構えの強力な詭弁術である。


まず、循環論法。


あなたには常識がない。

なぜならば、あなたは自分に常識がないことを気づいていないからだ。

どうして気づけないのか?あなたには常識がないからである。

このことは自ずから明らかである?こんな簡単なことの説明の為に

費やす時間や労力を持ち合わせていない???


循環論法を認めると、議論は溶融し、結論は現状維持か、あるいは

ラウド・マジョリティに100%寄った決定が下されて終わり。

そこに反論の余地は、一切ない。


それから、マジックワードによるレッテル張り。


常識、屁理屈、言語道断、負け組み、オタク、KY、などなど。

その言葉の絶対的な定義なるものを僕はついぞ聞いたことがない。

これもまた自ずから明らかなんだそうだ。


カテゴライズ自体には、まあ、問題はない、と思うけれど、

ときに、そのカテゴリーに属することは無媒介的に~~だ、という

論理を生み、どうしてそのカテゴリーが~~なのか、という問いを

無効化するように「わからない奴は一生わからない、不治の病」

に化ける。で、それを正当化する権威はどこから来るのかといったら

マジョリティの集団圧力である。


そういう狂気が極まった最終形態が、アウシュビッツだ。

「あなたはユダヤ人である。したがって、連行され処刑される。」


この部分は、きわめて、論理的であるだろう。


だからこそ、僕はこういうレトリックを見逃すわけにいかないのであり、

同じ理由が、僕をしてアスクリプションを許容させない。

だって、多様性を殺すだけなんだもん。


少なくとも僕は、この論法が正義だとは言わせないぞ。


あと、にょきにょきと足を生やしてみるけれども、そして、これは聡明なる

読者諸兄に対しては、むしろあんまりな失礼に当たるのではないか

と心配しているのだけれども、一応エントリタイトルを確認しておこう。


「常識至上主義は去れ。」と「常識至上主義者は去れ。」とは、これらは

まるで違うということは、ご理解いただけるかと思う。


自由な問い立ては、ここでは万人にひらかれている。

僕がそれを保証しよう。