一般に人は、真理を知らない。
そこで、「言論の場」を要請する。
発話者と対抗者がいる。
発話者はテクストの意味範囲をコンテクストによって限定することが
可能である。対抗者がテクストに向かうとき、コンテクストに縛られた
意味範囲内であれば自由にテクストを「読む」ことが許され、それは
「言論の場」の権威を以って有効な解釈、「可能解釈」と判断される。
意味範囲外にテクストを動かしてしまったとき、言論の場はそれを
読みとして無効な「誤解釈(不可能解釈)」と判断する。
(厳密には、言論の場が取り扱うのは、場に提出された、対抗者の
読みの表現物=テクストである。)
可能解釈に属する読みには二種類あり、対抗者の提示した解釈と
発話者の提示した(テクストを提出した瞬間に念頭にあった)解釈と
が一致しているときの対抗者の解釈を「同解釈」。一致していないときの
対抗者の解釈を「他解釈」と呼ぶ。どちらの場合も、対抗者と出会った
あとで発話者のテクストの解釈は、「初解釈」、または「正解釈」と呼ばれ
るようになり、対抗者の解釈一般は、「次解釈」、または「反解釈」と呼ぶ。
正解釈と反解釈が一致すれば、反解釈は同解釈となる。
また、初解釈が誤解釈である場合もありうるが、その場合には議論が
始まらないとみなしてよいものとする。
誤解釈の対義語は可能解釈であり、正解釈でない点に注意されたし。
これは、「唯一無二の無謬的な解釈」が存在しないという思想を反映した
ものであり、言論の場を必要とする者は全て、これに同意しなければ
ならないことは明らかだろう。
言論の場が発話者よりも対抗者に寄って立つ存在であるのは、
発話者の対抗者に対する優越を配慮したものである。言論そのものの、
他者を圧し、口を噤ませようとする威力は言論の場によって統制される
べきだろうと考える。