たぶん、それはつまり「鍵のかかった可も不可もない外開きの扉
によって阻まれたフェアな部屋」を僕が思い浮かべたときに、
「問題の部屋」と言う、そのそれだ。僕はまだその部屋を知らない。
僕はまず、「鍵の開いた扉」ならば開けて入ることができる。
つまり、「やさしいことならわかる」んだ。しかし、「いくらかやさしい
こと」、例えば鍵のかかった扉のノブにそれを開ける鍵束がかかって
いる。そこでは解決が目に見える形で与えられているから、問題と
しての価値そのものを失っている。
「むずかしいこと」は僕には解けないから「むずかしい」という形容詞が
付随しているのであって、解けるんだったら「やさしいこと」でしか
ないはずだ。だから、僕はその部屋を「問題の部屋」とは呼ばない。
僕がその部屋を「問題の部屋」と呼ぶとき、その部屋は「理念」としての
多様体であり、それはそれ自身においては「未規定」的でありながら、
「規定可能性」を経て、「規定」された何ものかになっている。
僕はその扉をやがては開いて、ウワバミの絵を見ることになる。
いや、わからない。僕がその扉を開けたとき、そこに誰が待っているのか、
僕は知らない。その部屋は何らかの部屋に生成する当のものとしての
存在様態をもっている。
だから、さらに言ってしまえば、その部屋は果たして本当にフェアである
のかどうかわからない、どころか、その扉が外開きなのかどうか
わからない、いや、僕にはまだ、その扉に鍵がかかっているかどうかさえ、
わからないのだ。
これは、とってもいいニュースだけれども、そこにおいてはもう、差異は
「否定」とその「対立」とは、別なやり方で描かれる。
そうして、かげふみのように踊り続ける僕らには、ポジティブな未規定性
によるダイナミクスが与えられる。しかも、多様体である実在はひとつの
現実性に現出しても、それで尽きることはないし、そこへと回収されきる
こともないのだという。
純粋な光を湛えた<魂>が次のリアルへとドライブしていく「構造=発生」
は、僕にも本当に愛しく思える。
齟齬のダイナミクスというパラドックスが「開かれた」ずれとして、夢の
回路の先の半歩ずれた世界で、シグナルとしての職能を担保しているの
なら、それが僕たちに次のステップを指し示してくれる。
だから、ある意味「誠実ではいられない」・からこそ・「留まっていられる」
ってことなんだと思う。
P.S. <魂>の次、最初のアフォリズムは所与のものじゃない、と直感的
には感じられる。「底抜け」の気づきのあと、僕たちは恐らく、能動的に想像
へと向う。だから、最初のアフォライズ、最初の世界への一撃は、「賽の
一振り」、つまり、偶有性の肯定になる。そのことは、今回のかげふみの
一歩目が『単独性と偶有性 』だったことや、さらに遡って、僕の哲学的観想
が「アイデンティティの古典的模索」に始まり、コンテンジェンシーを愛する
という宣言(or should I ? )まで線的に続いていった経緯からも見て取ること
ができるだろうと思う。