かつて世界は今よりもずっと素朴で気楽なところだった。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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かつて世界は今よりもずっと素朴で気楽なところだった。


僕が『星の王子さま』を読まなければ、この額縁に入った

「厚みのある横棒に半円を被せた黒ベタ塗りのシンプルな

影のイラスト」は、麦藁帽子以外の何者でもなかった。


僕は、「あるいはみんなはこれを麦藁帽子以外の、何か別の、

もしかしたらもっと素敵なものだと思うかもしれない」なんて

心配する必要はなかったし、これを麦藁帽子以外のものだと

考える人を見たら、だいぶ常識の欠けた人間だと思っただろう。


この絵の意味するものは、常識的に考えて、麦藁帽子だった。

それ以外に読解することは、間違いだったのだ。


そこでは、「厚みのある横棒に半円を被せた黒ベタ塗りのシンプル

な影のイラスト」という客体と、それを見て、麦藁帽子だと読む

僕らの認識とは、完璧に一致していた。


そこには、まだ手放しの真理が存在していたのだ。


なぜ、唯一絶対の常識的な答え[=読み]が存在したのかというと、

僕が、「厚みのある横棒に半円を被せた黒ベタ塗りのシンプルな

影のイラスト」を見てもれなく「麦藁帽子だ」と思ってしまうような

人々によって構成される、一個の閉じた共同体の内に生きていた

からだ。


そして、一方で、地球の裏側には、「厚みのある横棒に半円を

被せた黒ベタ塗りのシンプルな影のイラスト」を見てもれなく

「ウワバミだ」と思ってしまうような人々によって構成される、別の

閉じた共同体があった。


どうしてどうして、僕たちは出会ってしまったのだろうってね。


麦藁派の共同体と、ウワバミ派の共同体とがぶつかって、

麦藁派はあの絵を「ウワバミだ」と思う人々の存在を知り、

ウワバミ派はあの絵を「麦藁帽子だ」と思う人々の存在を知った。


最初は、僕はウワバミ派を見て「あいつらは頭おかしい、間違って

る」って思ったし、彼/彼女は、僕たち麦藁派を見て、「あいつら頭

おかしい、間違ってる」って思ったことだろう。

麦藁派とウワバミ派は互いに相手を呑み込んで自分のもつ正しい

解釈によって統一しようと試みたけれども、結局、うまくいかなかった。


僕たちは、複数の読みがありうること、そして複数の読みが共存する

状況を受け入れる他にないことを知った。


「厚みのある横棒に半円を被せた黒ベタ塗りのシンプルな影の

イラスト」を見て、「ウワバミだ」、「麦藁帽子だ」という限定された

とある読みが、他を圧倒してたった一つの解釈になるということの

正統性なんて、どこにもなかったのだ。



「厚みのある横棒に半円を被せた黒ベタ塗りのシンプルな影の

イラスト」それ自体は、麦藁帽子でも、ウワバミでもありうる。

それを麦藁帽子やウワバミという特定の読みに封じ込めるのは、

それがおかれたコンテクストだ。


たとえば、「かわいいね」という言葉はもちろん褒め言葉にもなる

けれど、コンテクスト次第では悪口にさえなりうる。


「かわいいね」と「フツー」の二つの評価ランクがあるときに

「フツー」、「フツー」、「フツー」、「かわいいね」と言えば、

「かわいいね」と言われた人は喜んでいいだろうと思う。


しかし、「かわいいね」と「美人だね」があるときに、

「美人だね」、「美人だね」、「美人だね」、「かわいいね」と

言ったら、「かわいいね」と言われた人は、喜ぶのはちょっと早い。


フツー<かわいいね<美人だね であれば、

「フツー」を連発しているときの「かわいいね」は相対的に高評価

ということになり、「美人だね」を連発しているときの「かわいいね」は

相対的に低評価ということになる。


他にも、場合によっては「大ッ嫌い」こそが最上級の高評価にも

なりうる。ツンデレもそうかもしれないし、コミュニケーションが比較的

希薄といわれる現代においては、「興味を持っている」、「レスがある」

ということ自体が重大な関係性だということの表明だということになる。


『帰ってきたドラえもん』のウソ800を飲んでいたら、直球で最大の

評価ということになるしね。


ウワバミ派から麦藁派への「これは麦藁帽子ではない」、

麦藁派からウワバミ派への「これはウワバミではない」宣言のあと、

つまり、人々が「「厚みのある横棒に半円を被せた黒ベタ塗りの

シンプルな影のイラスト」⇔麦藁帽子」、「「厚みのある横棒に半円を

被せた黒ベタ塗りのシンプルな影のイラスト」⇔ウワバミ」という絶対的

な真実の存在しないことに気づいてしまったとき。


それ以降がポストモダンってわけだけれど、そこでは「厚みのある

横棒に半円を被せた黒ベタ塗りのシンプルな影のイラスト」の読みを

一意に決定する「~にとっての」という留保、すなわちコンテクストに

よる条件つきの相対的な真実だけが、世界を紡ぎだす。