「誠実であるということ」でいいたかったのは、個々人の
セパレート・リアルが――心象、あるいは心理現象と呼ばれる
ものかなって思うけど、これを書いているのはまだことばを
知らない時点だ――、僕/彼/彼女にとっては、それが唯一
絶対なもののように見える、真実なんだという主張が圧倒的な
信憑性を帯びてしまうということは注意されるべきだろう。
たとえば、「パソコン及びインターネットは純粋悪だ」って
健気に信仰しているおじいさんがいるとする。
……バカバカしく思えるかな?
でも、「パソコン=悪」はその人にとっては真実なんだね。
『見たくないから見ない、気がついても言わない、
言ってもきかない。そして破局を迎える。』
見ざる聞かざる言わざる。
その人がある時点までにパソコンについて知りえた情報群が、
それまでもっていた彼の内面の正義の<法>に違反するもの
であったとき。
彼はそれまでの不十分な根拠を元に不十分な推論を行い、
不十分な決断、すなわち「パソコンを悪だとみなす」。
以降、彼はそれ以上悪に染まらないようになるたけ接触しない
ように努力するだろうし、そんな彼のことが僕には極めて、
誠実に振舞っているように感じられる。
『悲劇性は―アリストテレスが定義していることだけれど―
皮肉なことに当事者の欠点というよりは、むしろ美点を梃子にして
もたらされる。僕の言っていることはわかるかい?人はその欠点に
よってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中にひきずり
こまれていく。』
小説、『海辺のカフカ』の作中で、大島さんが、ギリシア悲劇
『オイディプス』の主人公オイディプスについて、このように語った
ことの真意は、そういうことじゃないだろうか。
※誠実であること、の条件の中には、「行動の一貫性」もあると思うん
だけど、それについてはまた議論したいと思う。
問題は、感情に乗っ取られている間の行動に自由はあるのか、って
ことだよね。感情が暴走すると、理性による自制が利かないじゃん。
そういう性質を、多分人はもともと持ち合わせているし、(それは
もしかして無意識に求められるのかもしれないけれどね)多分みんな
持ってるし、みんな持ってるんだろうなあという推量から、他人に
対して共感/同情する部分がある。
感情の、理性による統制を外部からコントロール可能なものとして、
その自制を怠った人に対して、情状酌量なしで直にGuiltを問うような
法システムを選択すると、<素朴な>思想弾圧的国家になっちゃう
んだね。怖いね。