仮説:「オリジナリティとパブリシティは両立できない」
「われわれ」が「あなたがた」を、あるいは、
「あなたがた」が「われわれ」を理解するためには、
「われわれ」と「あなたがた」が一致する必要があるのではないか。
僕たちは、何か物事を選択するときには、「価値観」という
情報処理システムに結果の予測演算をさせていると思う。
だから、僕たちは「価値観」こそが僕たちの精神であり、
「こころ」ではないかと考える。
でも、「価値観」とは、目を凝らせば、脳を初めとする諸器官の
物理的身体に依る、外部からのデータ・フラグメントの
集積でしかないことがわかるはずだ。
しかし、と僕たちは可能性を指摘する。
ただのフラグメントを共時的構造化するところの恣意があるだろう。
だがそれもまた、更に以前からある「価値観」によるものだ。
幼少期における「価値観」の発生論はすでに
十分議論し尽くされているとは思う。
結局のところ、僕たちのオリジナルとは突き詰めれば
DNA由来の物理的身体と外部情報のコピーしか残らない。
しかし、それでも、今のところは身体と寿命という「限界」によって
オリジナリティが規定されているという事実があるだけの話で。
来歴なんかどうでもいい。
まあ、たしかに。
だが、逆に、身体と寿命の限界が取り除かれたらどうなるか。
身体の限界とは脳の容量。
寿命の限界とは、親の死。
前者はネットという極めてアクセシビリティの高い外部記憶装置、
後者は医療技術の向上と身体の機械化によって突破できる。
・・・と思う。
音、光、臭い、触感、味。
今のところ僕らのリアリティを構成する全部とされている五感が、
全て0と1で表示できるようになるとどうなるか。
街に監視カメラだけでなく、五感全部の「情報」を汲み取る機械の複合、
真のパノプティコンを張り巡らせれば、なんと、純粋経験を
共有・保存・伝達できるようになってしまうではないか!
人間が並列化されても、ローカルやリージョンはありうるだろうか?
・・・まあ、なくてもいいか。
「こうして、全知無能のカミサマが誕生したのであった。」
冗談はおいといて。
「パブリシティのありかた」は私的な問題じゃねえかな。
僕は理想の学校をデザインせんと躍起になってるけど、
「そもそも学校にパブリシティを持ち込まないでください」という
素敵なパラドクスに出会いました、っていう話。
読み返してみると、ほとんど逆接で繋いでいる。
こういう構造なんだな、僕の「のーみそ」は。