70年代のはじめ、僕はシカゴにいて、
仕事仲間たちと共に賭けボウリングに興じていた。
なんでそんなことをしていたかというと、
仲間にいたOという男がボウリングと酒にしか
興味がなかったんだ。奴の心は常にレーンに向っていて
肝心の仕事の方はと言うとスプリットやガターばっかりだった。
そして仕事が終ると奴に誘われてみんなで
夜通しボウリングをする羽目になった。
掛け金は確か・・・、一度に100ドルだった。
71年の夏にニクソン・ショックで値崩れするまでは
一ドル360円だろ。その後でも270円とかだから、
100ドルというと結構な額だよな。
だから、僕らは栄光の100ドルピンを目指して
必死にボウルを投げたってわけだ。
そして・・・もちろん、ボウリングの機械も僕らが運んだんだ。
ピンセッター・マシンはミシガンの・・・マスキーガン・ミシガン。
マスキーガンのブランズウィックで作られていた。
そう、三井物産の工場だった。
知ってるかい?
ピンセッター・マシンができるまでは人間が奥で待っていて、
客がガラガラガッシャンとやったのを手で並べたんだぜ。
ほんとうさ。マジのマジ。
そうさ、危なくってしょうがないよな。
そして、レーンもピンも、あんな重い玉ぶっつけるんだからさ、
硬くなきゃいけないだろ。レーンはゆがんじゃうし、
ピンの首なんてすぐにポキッといっちまうわな。
だから、メイプルとパインで出来てる。
そう。メイプルはもちろん、北の国からだよな。
まあ、とにかく、そのころ僕はシカゴにいて、呑みすぎて
ガラガラのノドでガラガラとボウリングをしていたし、
Oは負け越してお小遣いがスッカラカンだったというわけだ。
何の話かって?
ねえ、つまり僕はこう言いたいわけだよ。
いくらピンセッター・マシン様がいらっしゃったとしてもさ、
客がお土産にひとつピンを持って帰りやがったら、
頑張っても90点にしかならないじゃないかってね。