僕は、電車に乗っていた。
この、連続した座席の、こちら側には僕しか座っていない。
向かい側には座席の両端に、カップルとサラリーマンが
座っている。
正面の窓ガラスに、僕の姿が映っている。
暗闇に浮ぶ僕の姿は、僕が如何にちっぽけで、
そしてひとりぼっちなのかを切実に伝えてくる。
僕の正面奥の、もしくは窓に映った、反対側にある僕の背後の
窓の外の街並みは家々の灯りによって、わずかにその輪郭を
捉えることができる。
僕は都会の星空を想像する。
都会の夜空は街の明かりで白んでしまって星がよく見えない。
そんな頼りない光、何億光年も先にあるのだろう、わずかな
他者の存在の気配は、反って僕の孤独を深めることになる。
それが淋しいことなのか、恐いことなのか、いまいち実感が
湧いてこない。まるで他人事のようで、自分の身体さえも
ずっと遠いところにある気がする。
重い眼差しで自分の像を眺める僕の姿は、とてもみじめで
情け無いものだった。
僕には自分の姿が、暗くてじめじめした牢獄に、
永久にひとりぼっちで幽閉される哀れな囚人のように思えた。
「窓」は、ある固定化された「枠」によって区切られた、
世界のひとつのaspectを提供する。
今、電車は河にかかる鉄橋を渡ろうとしている。
ここで僕は、「窓」という恣意を通して、世界に相対することになる。
水面は淡い月の光に照らされて、様々な色合いをそこに孕んでいる。
緑があり、灰色があり、白があり、紫があり、赤があり、青があって、
黄色がある。蠢く無数の甲虫のような、滑らかさと脈打つような
鮮やかさが、僕の思考に、なみなみと満ちてくる。
僕には、流動的で決して止まるはずの無い川の流れが、
連続する動画ではなく、むしろ断続的な静止画として感じられた。
それは、「窓」によって静止化され固定化された死んだデータの塊
であるはずなのに、ふつふつと湧き立つ熱のような活力を持った
存在として、僕の脳は認識している。
錆びた線路の溝を越えるたびに、
衝撃が電車の車体に伝わり、座席に伝わり、僕の身体に伝わる。
最後尾車両に乗っている僕には、その衝撃が前方の車両から
順々にやってくる波のように感じられる。
その波は僕の心臓、僕の体液の波と共鳴し、窓の外をひたすら眺める
僕の思考に、地球規模の循環のイメージを送り込む。
地球規模の生命環というアイデアが、その領内に僕を取り込む。
水の循環、大気の循環、生と死の循環。
地球は一個の生命であり、この揺れこそが地球の拍動なのだ、と。
妙に生々しい、血液や臓器の陶酔から醒めて、
僕はちょっとしたことを思いついた。
僕が先程牢獄と感じた電車の車両には僕の他にも幾人かの
乗客がいて、彼らは自分の降りるべき駅がやってくると、
そこで席を立って自ら外の世界へと去っていく。
GHOST IN THE CELL.
僕達は閉ざされた硬い殻(shell)の内にいるのではない。
これは、cellだったのだ。
「胞」
なりたち
「月」(肉、からだ)と子宮の中に胎児がいる形とともに
音を示す「包」とを合わせて、胎児を包んでいるもの、「えな」の
意味をあらわす。
意味
①えな。胎児を包んでいる膜。
②胎児の宿るところ。母胎。
③生物体をつくりあげている原形質組織の小さなつぶ。
(角川最新漢和辞典改訂新版より引用)
ghostは胞の内にあった。
そもそも、出たければいつだって出ることが可能だったのだ。
そして、胞にくるまれたghostが純粋で透明な光を
宿しているのは当然のことだった。