『スルメを見てイカがわかるか!』
養老孟司
茂木健一郎
+世代間のコミュニケーション
養老
『それにしても感じるのは、若い世代が人によっては
極めて饒舌だということです。』
『テレビのワイドショーみたいな形で、言葉というのは
消費物であり、その場その場で使い捨てであるという感覚が
あるように思う。これはやはり怖いですよね。コミュニケーション
の崩壊をもたらしかねない。』
僕もおしゃべりなんだよね。
「ちょっとは静かにしなさい」と言われたこともあります。
養老孟司(以下タケちゃん)の感じた「使い捨ての言葉」
のイメージですが、ディジタル・ネイティブに関して言えば
恐らく必然の(自然な)傾向では無いかと思います。
理由のひとつは、既にアウトプットのインフラが
十分なだけできあがっていること。
例えば、
僕には自分が思ったことのリアルタイム性や、
アオイが恐れたように、僕も誤読されるのが怖くて
情報の質よりも量を充実させることを優先する傾向が
ある気がします。
あるいは、情報の正確性や正誤にこだわってないのかも。
「ピーマンなんて全くだめだ。この世から消えてしまえ」
と書いたとする。
そしたら、
ピーマンは栄養価が高いんだ、とか、
苦味を消せるこんな調理法があるよ、とか、
あの苦味を楽しまなきゃいけないんだ、とか、
いろんな人が訂正、反論してくれるかもしれない。
ここでは、ビッグ・マウスがある種のプロパガンダとして
機能していて、僕が書いたことがそれを見た誰かさんに
意識下で、もしくは無意識下で作用する。
誰かさんは僕が書いたピーマンのエントリを引用して
トラックバックを引っ張る。
別の誰かさんは、このエントリを読んだあとに一度忘れて、
で、ふと思いついて一週間後、『ピーマンと近年のモンタナ州に
おける全自動芝刈り機の購買層の若年化』という構想に
たどり着くかもしれない。
もちろん、僕は自分の書いたぐにゃぐにゃによって社会を
変えることができるなんて思ってないけど、
でもそれくらいの些細な影響を与えることができるかも
しれないとは思ってるんだと思います。
で、僕のほうは、少なくともそれを狙って書いてきたわけでも
無いので(好きで書いてる)動機なき無意識って奴です。
だから少なくともサブリミナル効果を狙った洗脳ではないし、
僕に悪意はない。(それは証明できませんけど)
でもメッセージではある。
(僕のグダグダが、SOS団の団章みたいにものすごい
情報量持ったりしてね。でも、なにかしらのものすごい
ひらめきにつながらないとは言い切れない。
レオナルド・ダ・ヴィンチだって鏡文字で書いたんだ。
僕もそうすべきかも知れないね。)
・・・とまあ、これがジャンク情報なんだ。
僕がこれを気楽にやってしまうのは、
99%のゴミから1%の宝を掬い出す作業を
検索エンジンに丸投げしてるからだ、というのもある。
それから、もう一つ思いついたのは
僕が無意識下で言文一致を行ってるってのもあるかも。
口語に近くすることで、自分と比較的に近い人間
(僕の非常に読みにくい悪文に耐えうる寛容な人間)
に自分のメッセージを届けたいのかもしれない。
では逆に、大事に紡がれた言葉ってどんなのだろう。
短歌や俳句では、五七五七七の少ない言葉群の外側に
その百倍くらいの情報が広がっている。
選び抜かれた言葉達は川の中の砂金みたいなもので、
僕達はその金の粒子の一粒から
白い砂がずっと広がる河原やつるつると光る岩魚、
ごつごつとして目が廻るような切り立った渓谷や
紅葉の美しい木々の彩を思い浮かべることができる。
みんなも、たとえば「応援」というキーワードで、
ものすごくたくさんの情報が浮んでくると思う。
前にウェブ上での写経は可能か、みたいな話を
ちょこっとしたけど、「言葉の消費物化」は(うまい言葉が
思いつかない)身体性の問題とも深くつながっている。
文字によるコミュニケーションが新しい方向に
発展してきてるということだと思うんだよ。
ガイドラインやコピペもそうだけど、
言葉の限界性というか、あえて、ある種のシバリを設けて
そこで大喜利みたいなことをする遊びもある。
だから、僕は別に「コミュニケーションの崩壊」じゃなくて
「コミュニケーションの分化」だと思うんだけどなあ。
タケちゃん、どーですか?
「ちょーおもしろくなくなくない?」
ちょっと面白いよね。僕は面白いよ。