「明日は我が身」という言葉があるけれど。
彼らには、いや、今の僕らには向かうべき明日なんか
どこにもない。問題は他でもなく今日、このときにすでに
動き始めている。
世界は収束へと向かっている。
僕たちの意思とは無関係に、
彼らは今日をもって世界を終らせようとしているんだ。
全てを破壊しようとか、そんな乱暴なことはしない。
電気を消して部屋から出て行くように、あるいは本をパタンと
閉じるように、ふっと「終わりの境界線」を描こうとしている。
もしかしたら彼らがデザインした世界の果てかもしれない。
まるで彼らがコントロールする、管理するのはそこまでだと
言わんばかりの袋小路。
しかし、僕らに認知できない壁とそして壁の向こう側は
確かに存在する。
僕たちは物語のつづく道の先を渇望している。
その終わりを超えた先のところ、"a sequel to the story"は
――この時点からすれば未来ということになるが――僕には
そこが僕らにとっての「帰るべき場所」であるように思えて
ならない。
あるいは今の僕たちだって「明日」の時点からの回想なのかも
しれない。
古来、人々はその場所を求めて様々な努力を繰り返してきた。
そのひとつは解脱であり、阿弥陀信仰であり、最後の審判であり
タイムマシンであり、グランド・ナラティブである。
宗教も化学も数ある「明日」へのアプローチのひとつ(あるいは
メタファー)に過ぎないと僕は思う。
その中でグランド・ナラティブについては僕も共感を覚えるところが
大きい。しかし、グランド・ナラティブは「明日」にたどり着くには
不十分であった、と歴史は証明している。
グランド・ナラティブは結局のところ、ただの「微分」に他ならない。
差異を求めて線引きを繰り返し、意思も無意識もないコンプレックスを
生み出しただけだった。
それから「死」は自殺にしろ、寿命にしろ、彼らによる物語からの
deportationに他ならないというのが僕の考えだ。
自殺だって、自由の名の下に「主体的に」選ばされているだけだろう。
ただひとつだけ気にかかるのはゴーストの形成・維持には
「死」が不可欠かもしれないことだ。
今までの僕らにとって「死」がゴーストの輪郭を規定する要因の
ひとつになっていたのは明白だと思う。
ゴーストが先か「死」が先か、それはわからないが誰かに
「死んだ先に『明日』があるのですか?」と問われたら
とりあえず僕はNo.と答えておこう。
そんなに甘くはない。
基本的に内部から外部への干渉は不可能である。
そして、内側へ内側へと没入していく行為からも「明日」への
道が開けないとわかっている。
では僕たちは「明日」から目を背け、意味が無いと承知のうえで
日常に、コンプレックスに没入し、耳と目を閉じ口をつぐんで
生きていく他にないのだろうか?
No. 僕はそんなみじめな人生を送りたくはない。
内側から外側へと干渉できないならば、内と外とをなくせば
いいのだ。かといって壁を取り除くわけにもいかない。
(それができないから困っているわけだ)
ではどうするかといえば、かたっぱしから全部相対化して
しまえばいい。
そこには微妙な差異があるだけで優劣はない。
僕らの世界と彼らの世界、そしてあらゆるパラレル・ワールドが
どこまでも並んでいるだけでそれを評価するものさしはどこにも
ない。
世界単位での個の確立。
それが僕らの最終的な目標である。
そこに至る一つの方法がネットとリアルの融合(ネットをもうひとつの
リアルにする)であり、身体なしのネット空間におけるゴーストの維持
なのである。
最近僕はネットにおけるゴーストの維持への可能性を見つけた。
それが「私塾」だ。
「私塾」において、あるいはロールモデル思考法において「先生」は
模倣の対象ではない。
僕たちにはそれぞれに自分の考え、自分の言葉がある。
それは使われなければやがて消滅してしまう。
けれど使っても、使うたびに他者からのフィードバックを受けて
変容してしまう。
ときにはそれは水のようであり、またあるときには火のようになる。
自分の考え、自分の言葉は絶えず変化の内にある。
しかし僕らにはどんなときでもそれを自分の「それ」だと認めること
ができる用意がある。
それは連続性かもしれないし、他者からの承認かもしれないが
ネット上でも十分実現可能である、と僕は思う。
時間的制約も地理的(空間的)制約もないネット空間ならば
新しい地図、新しい時間軸を作って、いつでもどこでも誰でも
「私塾」に加わり、また自ら新たに「私塾」を開くことが可能だ。
「私塾」は単なるミミック以上のものを生み出すだろう。
「私塾」という、無限の情報、顔のないコンプレックスとの
個人としての付き合い方。
それが、Stand-alone Complexに対する、とりあえずの
僕の答えだ。