午後の九時半から十時頃の事である。
僕は乗り換えのために山手線を降りて
乗換え口に向かって歩きはじめたところであった。
まだ階段にたどり着く前に左手から幾人かの
悲鳴が聞こえてきた。
僕は別の方向を向いていた為に、なぜ彼等が悲鳴を
あげたのか分からなかった。
いや、目の端に何か捉えていたかもしれないが
少なくとも視界の地であって僕の目には映って
いなかったのである。
僕は明らかに嫌な予感がしたからやはりすたすたと
歩き続けながらそちらに目を向けた。
停車した緑の電車の開いたドアを中心に、半円を
描くように数人かがんだり立ったりして電車を見ていた。
その中心には女物の白い毛皮のコートが
ふわり、と落ちていた。
僕は見覚えがあるような気がした。
先ほどの悲鳴と同時か少し早い位に、空中を落ちる
白いコートを見たかもしれない。
僕は信じられなかったが、
そこにいたサラリーマン風の男が「電車を止めろ」と
叫んでいたから誰かが線路に落ちたのではないかと
思った。
悲鳴が聞こえたのは僕が下車した後だから
少なくとも飛び降り自殺ではない。
しかし、電車が停車したホームと電車の間は
ほとんど隙間がない。ここから線路に落ちることは
可能だろうか?
この前、池袋駅の入り口の階段に担架が到着した
ところに遭遇したが、階段に倒れた男のそばには
吐瀉物がシミをつくっていたので
酒を呑めば線路に落ちることもありうるかもしれない。
僕には、よくわからなかった。
いや頭が考えることを拒否していた。
少し前に、怪我が発生した後の対応の
シミュレーションを何度も繰り返したことがあったので
理性のシッポはなんとか捕まえたままだったが、
素晴らしき僕の理性は「逃げろ」とサイレンを鳴らしながら
走りはじめていた。
だから僕がただ引きずられて行くしかなかったのも
仕方のない事かもしれない。
1、十分に人数がいること
2、すでに周りの野次馬に指示を出せる人間が、
則ち現場監督役が存在し、かつ駅員が
非常停止ボタンからの信号を受けて到着していること
この二つを根拠に解決は時間の問題であり、
自分が残ったところで何も仕事はなく、
しかも明日模試だからと僕は責務を放り出して逃げた。
実のところ僕は怖かった。
すたすたと現場のホームを抜けて
すたすたと階段を登り
すたすたと空中通路を渡って
すたすたと改札をとおり抜け
すたすたと階段を下りた
京成線のホームから先程のホームを眺める。
・・・というか電車を待つ列に並ぶと必然的に
先程のホームを眺める格好になるのである。
しばらくして、僕がここまで乗ってきた
問題の山手線が、何事もなかったかのように
ゆっくりとホームから出て行った。
ここからわかるのはただひとつ、
山手線の運行が再開されたことだけである。
恐らく今、山手線の車内ではこんな車内放送が
流れているはずである。
お客様に連絡申し上げます。
先ほど日暮里駅におきまして転落事故が
発生いたしました。
非常停止ボタンが押されたために
十分ほど停車いたしました。
お急ぎのところ電車が遅れましたことを
お詫び申し上げます。
電車の乗り降りの際は足元に
十分お気をつけ下さるようお願いします。
次は田端、田端です・・・
彼女の安否は、わからない。
しかたがない。
他でもなく僕がそれを選んだのだ。
僕は彼女の無事を腹の底から祈った。
やはり、僕自身のためである。
僕はうんざりした。
彼女の白いコートが頭を離れない。
白いコートは僕に天女の羽衣を思い起こさせた。
どうしても死のイメージが浮かんでくる。
いつか見たばらばらになった鳩の死骸は
なんとなく綺麗だった。
肉の欠片の間から飛び出た白い骨は
鍵型に曲がっていた。
世界一神経質な断頭台である。
しかしその仕事は的確で正確だ。
今朝、線路が意外と綺麗だったのは
磨かれた刃を想像させる。
アナログの時計は怖い。
カチ、カチ、カチ、カチ・・・
音がしないだけデジタルの方が
幾分マシだ。
いや、そうじゃない。
怖くないからこそ、
デジタルの方が恐ろしいと思った。
そういえば今日の夕方、
やはり山手線の中で横にいた恐らく新人の
サラリーマンの男が話していた。
「東京にいるとさ、早死にするよな。」
全くそのとおりだと思った。