インターネットの「非身体性」 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


「写経」はインターネット上でもできるのだろうか?



例えばコピペはもちろんダメだと思う。

「一字一字を噛み締めるように大切にしろ」って

聞いたことがあるから、

全選択→コピー→ペーストじゃあ

冥府魔道に叩き落とされちゃうよね。


では、美しい姿勢で、一字一字丁寧にタイピングすれば

それは「写経」になるのだろうか。

メモ帳やアメブロならそれでもいいかもしれないけど、

「はてな」のキーワードシステムだったら、

一語一語でご丁寧に意味や用法のリンクが貼られてしまう。


書いてある経文の、意味がわからないのも神秘性という

重要な要素かもしれない。



もともとは、印刷技術もなかったから経文が欲しければ

手で写すしかなかったわけだけれど、

今でも「手」で、「紙」に、「墨」で書くのは写経の重要な

条件なのだろうか?


現在のお経は、人々の間で写経が延々と繰り返されるうちに

写し間違えたり独自の解釈を加えたりして、もともとの釈迦が

実際に話した訓えからは随分と変わってきていると聞いた

けれど、


間違えても直せない、ときには間違えたことすら気づかない

「不便性」も「写経」という芸術(といったら失礼に当たるかな?)

の重要な性質なんだろう。



グーグルはインターネットの「民主性」を神格化して信仰している。

「擬人化」が行われ、インターネットの意思の表出のために、

検索エンジンの理想を追求している。


インターネットに恋をしているんだ。


僕もインターネットは大好きだ。

この無限空間はとても刺激的で、24時間リアルタイムの

情報のシャワーはとても心地よい。


すごく便利だし、すごく速い。

すごく近いし、すごく広い。

すごく多いし、すごく深い。


だから、大好きだ。




でも、こうも思う。


リアル=こちら側の泥臭さ、しんどいところ、不便さ、

ものすごくフィジカルなわけだ。

それもときにはすごくステキで有意義なものでは

ないだろうか?(とあちら側に書いてみる)




運動会の作業の心地よい疲労を感じながら、

ちょっとそう思った。