平野が『ウェブ人間論』で指摘するように、人が自分を
表現するには言葉を使うしかないわけだけれど、その
「言葉」は自分を規定してしまう。
自分で書いた文の内容に、自身が引きずられてしまう。
『運慶とWeb2.0』でも書いたけれど「キャラクター・ビジネス」が
今のように「文化の無限再生産」と言ってもいいくらいに
革新されたのはインターネットというメディアに出会ったからです。
特にネットだと、顔が見えないわけだからただ言葉によってのみ
自分を伝えるわけです。
そこでは自分のことを言葉で書くときに、自分を規定されてしまう
ということが頻繁に、そして強力に作用する。
(だからディジタル・ネイティブのアイデンティティクライシスは
研究してみると面白いかもしれません。
あ、ちょうどいいところにサンプルがいますね。
このブログの古い記事を是非ご活用ください^^)
それをキャラクタービジネスに関して話すと、
例えば、あるアニメの論評を書いたブログがあったとする。
そこにはもちろん具体的な「物語」に関する議論や、
ストーリ構成、カメラワーク、挿入曲、声優の演技、
小道具、メタファー、作画、仕上げ、CG処理、・・・えとせとら
といろんなことが書かれていると思うけど、
そこには恐らく「キャラクター」に関する話題も間違いなくある
でしょうね。
あるキャラクターについて記述するとき、執筆者は自分が
そのキャラクターを好きなのか嫌いなのか、もし好き、あるいは
嫌いならば、そのキャラクターのどういった要素がそう思わせるのか。
ブログの執筆者は「作者」というよりも「第一の読者」と考えるべき
でしょう。そこで自分を言葉に紡いで、他人に伝える過程に自分を
言葉で規定する作業があり、そこで自分のフェティシズムを確認
(あるいは植えつけている)しているのです。
そして、「読者」としてブログに相対することで、自分の嗜好のうち
特に目立つコードを拾うようになる。
誰だって自分の嗜好には興味があるからね。
(アイデンティティの古典的模索)
そこで、嗜好性の単純化、細分化が起こる。
それらはときに、名づけが行われてカテゴリーとして確立され、
より一般の人にも通用するようになる。
そして、そこでつけられたタグは逆にキャラクターの性格や行動を
限定していきます。
さらにはそのタグこそがキャラクターとなり、普遍的で大衆的な存在に
なっていきます。多くの人に愛されるキャラクターの方が利益に
つながるからです。
消費者は、キャラクターを考えるときに、そのタグ=強調された性格を
みて、そのなかに自分の嗜好に要素を見つけられたらそれはすなわち
自分の好きなキャラクターになりうるとわかる、というわけです。
こうしてキャラクタリスティックが重視されていくことで
キャラクターは記号化されるのではないでしょうか?