どしゃぶり | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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こんばんわー、ひょろです。


ごめん、もうだめだ。寝るわノシ


「アイデンティティってなんだろね? ♯2」


近代の彼方―歴史意識を手がかりに

大澤真幸


かなり乱暴ですが

読んでみて要約、噛み砕いてまとめることで

自分の頭の中でも整理したいなと。


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○「作為」と「自然」


丸山真男は西洋「近代」を理想として

日本の思想史を厳しく批判しました。


そこには西洋「近代」の「作為(すること)」の倫理と

日本の「自然(であること)」の倫理との相違があります。


「侍とあろうものが飛び道具有難そうに使いやがって」

→武士本質(実在)論 

(日本が開国して、各藩は戦争に西洋の技術を取り入れようとした。)


武士(である)から兵隊(する)へ。





しかしそこには重大な見落としがありました。

それは「近代」が抱える葛藤。



「近代」である条件とは、


①個人に、能動的な選択と決定している自覚、承認があること。

②個人の恣意から独立した(私的とか自己の利益のためとかじゃなく)、

(抽象的で)形式的な規範秩序があること。 ・・・です。


イメージとしては、

individualが強く認められていることと

「人を裁くのは人ではなく法であるべきだ」でいいでしょうか?


しかし、法を法たらしめるのは、・・・個人の決断なのです。


自由に関して、全ての人が平等であるべきだ。

→「自由」が何かの範囲を定めるのは主権者の決断




私(個人の権利、自由)は公(法)に守られていて、

同時に公(法)は私(個人の決断)に守られている。


西洋「近代」の、宗教に対して「中立的立場」をとる

機構の根底には、こんなパラドックスがあるわけです。


○「今」


丸山くんは、近代のパラドックスに気づかないまま

「である」社会から「する」社会への革命を目指したわけです。

結局挫折したみたいですけど。


丸山真男がぶち当たった壁。

日本の、諦念の歴史史観について整理しましょう。


我々の歴史は、突然の宇宙誕生から始まります。

その原因がビッグバンなのか何なのかは科学者に任せるとして。


日本では記紀神話にて、そのとき、世界が「なった」とされています。


「なる」は「苔むす」の「ムス」と同じで、神秘的な霊力で顕現した、

つまり自然発生という意味です。


そして世界が「なった」あとどうなったかは

「次に」どうなった、「次に」どうなった、という感じで

「つぎ」という言葉で綴られているそうです。


どんどんどんどん連なっていく。

「絵巻物」のイメージです。


そしてもう一つの概念が「いきほひ」です。


「現在」から「世界」がぽんぽんと吹き出て

惰性で一定方向にいつまでもつづいている姿です。


合わせて「つぎつぎとなりゆくいきほひ」


「現在」から自然発生した「世界」(できごと)が

惰性で無限に続いていくイメージで捉えればおkだと思います。


・昔あった、素晴らしい世界に近づけるように引き締めよう

・いつの日か理想に到達できるように直していこう


この二つの考えは「つぎつぎとなりゆくいきほひ」の前では

無力ですね。

これが「古層」。丸山真男が言うところの日本人が歴史をみるときに

頭の下の方で流れている「執拗低音」です。


○「今の時」


ところで、太平洋戦争の終戦の日っていつでしたっけ?

そう、1945年8月15日。この日に玉音放送があったわけです。


けれど、ポツダム宣言は8月14日、降伏文書への調印式は

9月2日です。

このうちのどの日でも、「終戦の日」となり得そうですよね。


答えは、天皇陛下が国民に語りかけた日を選ぶことで

「敗戦の日」ではなく「終戦の日」と記憶したかったということですが

8月15日が終戦の日と認識されるようになったのは1955年頃のことだ

そうです。


これは冷戦で、アメリカからみて日本が重要になってきたことで

日本のアメリカに対する「負け」の意味が弱くなり

「敗戦」ではなく「終戦」と書くことができた、ということだということです。

(気持ち的に)


ここからわかることは、「歴史」を書くとき、人は、すべてが終わった

地点にいるかのように振舞う、ということです。


「歴史は常に勝者がつくるのだ」とはよく言いますが、

後からみたとき、歴史は「ここ」につながる必然の道に思えます。


でも、「他でもありえた」んですよね。


(歴史に if はないというけれど、今のこれも if のひとつなんだと

思います。)


『ぼくらの』っぽいけど、選ばれなかった可能性が、

「今ここ」にいたるまでの全ての瞬間に死んでいったわけです。


これが「歴史の敗者」です。



そして今ここにある僕達の歴史もまた、あらゆる瞬間に死んでいた、

敗者となっていた可能性もあるわけですよね。


敗者になりうることが、

僕たちが歴史における自由の主体であった証明になるそうです。

(選択して掴み取ったという理解でいいでしょう。)


ならば、敗者を勝者として救済しなおすような歴史―もあるはずです。



では神として、歴史の外から、延々と書き直し続ければいいん

でしょうか?しかしこれでは直前まで「勝者」であった歴史が確実に

敗者になり続けます。(という解釈でいいのかな?)

よって、これでは不完全です。


では、どうすればいいのか。
正解は、神を歴史を綴るものを時間の外から「今」、「今の時」に

引きずりおろせばよいのです。


神が間違えうる悪になりうるという状況に持っていけば、

そこまでの歴史に影響を受けたり、失敗したりするわけです。


こうることで「書き換え」「革命」は失敗するかもしれない

いちかばちかの賭けとなり、

敗者となりうる可能性さえかき集めて反復するのです。


○結


丸山真男の「近代」の認識の穴から、

彼がぶちあたった「今」の内に、「である」ことと「する」ことの

答えがあるんじゃないか、というお話でした。


そして具体的にはどういうイメージをもてばいいのか、という

話ですが例としてあげているのは、


徳川時代の武士の「諌争」です。


武士たちには、

御恩を受けてきた主君に対する忠誠心と、

個体的戦闘者としての気概があります。


これによって、武士は主君が過ちを犯したとき

見てみぬ振りをする卑屈さも、主君を見捨てる

冷淡な振る舞いにも出ずに済むのです。


このとき、武士たちは、主従関係を逸脱して、

決死の覚悟で主君を諌める行為「諌争」をとるのです。


正に「鬼の爪」ですね。



・村上春樹が書いていた、「ノモンハンは今起きているんだ」っていう

ことの意味がわかった気がします。



眠たいので駆け足になって申しわけありませんが

(現在時刻午前3時30分)

以上でおしまいです。おつかれさまでした。