あの日、私はまだ学生で。

二段ベッドで寝てたら、背中が突き上げられるような感覚で目が覚めた。


咄嗟に、部屋の引き戸を開けたタイミングで、父親が『大丈夫か!?』と、慌ててやってきた。


母親は、とりあえず自分の実家に電話して『とりあえず無事だから!』とだけ言って電話を切り。


だんだん陽が昇るにつれ、神戸の悲惨な状況がニュースで流れて。


学校は、どうなのか分からなかったけれども。

とりあえず、チャリ🚲️でいつも通り学校へ。


が。

通学路の道路の一部分が 地割れしてて。


おっかなびっくり しながらも、何とか学校へ到着するも。


下駄箱があるロッカールーム(?)の窓ガラスが、バリバリ割れてて。

何とか登校出来た教師が、掃除してた。



大阪の真ん中(奈良県寄り)に住んでたけれど。


やっぱり高校にもなると、教師が全員 登校出来なくって。


生徒(クラスメート)は、ほとんど全員登校してたと思う。


母校は、圧倒的にチャリ🚲️通学が大半で、電車&チャリ🚲️や、徒歩は少なかったせいかも?


でも、大抵が30~45分かけてチャリ🚲️通学。


教師は、ほとんど車やったんかなぁ?

いや、電車&チャリ🚲️の先生もおったやろうな。



何せ学区が も~んのすごく広くて。


先生達が なかなか登校出来ないから、まるでテストの時みたいに、黒板に


一限目 自習

二時限目 自習

三時限目 自習

四時限目 自習


って書かれてた。


多分、出席日数の都合上、やたらと休校には出来んかったんかな?と思う。


そんな状態が1週間近く(?)続いたような?


母親の従兄弟ファミリーが当時、神戸のポートアイランドに住んでて。


毎週のように、支援物資を車で近くまで行って、その後は台車に荷物載せて運んでた。


私は感受性が豊かすぎる性質なので。

現場に行かなくて、正解だったと思う。


大人になってから、恋人に広島の平和記念館へ連れて行かれた夜は、実は恋人が宇宙人で私は さらわれる…なんていう悪夢にうなされた。


ちょっと衝撃的すぎる。


私的には軽い気持ちで、遠足や修学旅行に行く場所じゃない気がする位、メンタルやられた。


ちなみに、ポートアイランドに住んでた はとこ(母親の従兄弟の子ども)は、遠足(?)で行った夜にうなされたらしい。


その はとこの妹は、その震災で どうやら大切な人を失った(離れた?)らしく 未だに精神不安定で1人にさせられない状態。



私は見た夢は、何年経っても忘れない性質だけど、幸運な事に、現実で辛かった記憶は、『辛かった』とか『このまま飛び降りようかな』とか思った事は覚えてるけど、夢の時程 細かく覚えてない。



多分 私は防衛反応で辛かった記憶を欠如する事で、今も生きてこられてると思う。


もし覚えていたら、多分まともに生きていられなかったんだろうなと。



よく

『この悲惨な状況を忘れないで!』

という言葉を耳にしたり、目についたりするけれど。


みんながみんな そうじゃない。


覚えている事によって、メンタルがやられて、食べられなくなり、餓死してしまった知り合いがいた。


彼は ろう者(聞こえない人)で、3.11の映像

見ただけで、日に日に引きこもっていき、食事すら摂れずになって、4月の半ばに亡くなってしまった。



覚えて教訓とするのも良い。

だけど、消えない記憶で苦しんで亡くなる人がいる事も知って欲しい。


だから、あまり

『あの日を忘れないで!』

ばかり、言わないで欲しい。



どっちも大切だけど、忘れないと生きていけない人が居る事も、知って欲しい。



だから。

自分が出来る形で 支援や行動するだけでも良いんじゃないかな?


例え それが何も出来なくても、悪いことじゃないと思う。

何か行動する事で、自分からメンタル落とすまで しなきゃならないなんて事はないハズ!


自分が自分でいられる為に。。。