会社の前に、川がある。
その川を見ながら、Hydeが同時に考えていた2つの事。
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対岸で、小指の先くらいの大きさで、
恐らく世間ではオバさんと言われる人たちが歩いていた。
数にして3人ばかり。
身振り手振りで、楽しげな様子は判るのだけど、
もちろんどんな事を考え、どんな表情を浮かべてるのかは判らない。
僕は、サバンナの生まれでは無かったのだから。
ヒトとの関係というのは、こういうものだろうなあと想う。
もし、この僕が寄りかかったフェンスと、川の間にある距離にして5mくらいのところで、
殺人事件でも起きたり、
綺麗な女のこと目でもあったのなら、
それは僕にとっての事件になるのだろう。
でも、きっと、
対岸を歩いてるオバさんたちが、
今この瞬間クモ膜下出血で倒れたとして、
僕はその事象について、現実の事件として捕らえる事ができないかもしれない。
そのオバさん達の向こうには、
名前も知らない会社の青い建物が見える。
きっと僕は、そのことを憶測しているにすぎないのだけど、
そこにはたくさんの人たちが、いつもの僕と同じように、
誰がやってもやらなくても、世界という時計のねじを巻き上げるという事に対して、
なんの責任も、影響もない仕事を、右から左に(或いは上から下に)流しているのだろうと想う。
でも、現実的には壁で遮られて、
そこにヒトが居るのか判らないということは、
仮に其処に誰かが実在していたにせよ、
僕の想像する誰かとは、本質的に違うものだ。
それなのに、きっと壁を透過する、サバンナ生まれの目線があるのなら、
自分と全く同じように、その人たちが、心臓の鼓動を刻み、呼吸してることが判るに違いない。
会社の勤務時間中に、
川の向こうで、誰かがクモ膜下出血したとしたら、僕はやはり、少し驚いて、
周りにヒトがいないなら、救急車を呼ぼうとするかもしれない。
青い建物の中で、殺人事件が始まっていようと、
芸能人のヌード撮影会が行われていようと、川のこちら側に居る僕には判らない。
もし川までの5mに自分好みの女の子が独りで立っていたら、
僕は其処に降りる道を探して、声を掛けるかもしれない。
でも間違いなく、
僕は誰の内側にもある気持ちというものに対して、
目で見ることも触れることもできないのだから、
その事に対して、常に適切に行動できるとは限らない。
これは、人類全体が抱えている、根源的な問題なのかもしれないと想う。
僕自身は、性悪説なのかもしれないが、
現実の中で、川べりまでの5mの間に、
もし自分が関与する事で、事態が少しでも良くなる、
或いは、自分にとって益があることに、殆どの人間はやはりアクションを起こすのではないだろうか。
具体的に言うのなら、
口でどれだけ、冷たく言い放とうと、
一度"情”というものが生まれてしまえば、
見た目ほど、クールに相手に接する事が出来ない人間というのは、
僕が想うよりは多いのかもしれない。
ただ、誰と誰の間にも、
5mの距離も、青い壁も、カナヅチにとっての川も在るわけで、
いつもいつも、
遊歩道まで降りていける回り道を見つけられるわけでもないし、
女性が暴漢に襲われてる場面で、助けなきゃ!と右足が前に出るわけでもない。
世界には、悪意や善意が、光在れ、というように存在するわけではなく、
漠然とした距離感だけが、この川の流れのように横たわっているのではないだろうか。
対岸を歩く、"女性”をみて、僕はそんな事を考えるのだった。
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とまあ、妄想ではあるのですが~、
現実のHydeの思考回路を書いてみました。
その結果、皆さんがどんな感想を持つのか、
2本みて、教えてくれると、
俺は喜んだりするわけです。
その川を見ながら、Hydeが同時に考えていた2つの事。
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対岸で、小指の先くらいの大きさで、
恐らく世間ではオバさんと言われる人たちが歩いていた。
数にして3人ばかり。
身振り手振りで、楽しげな様子は判るのだけど、
もちろんどんな事を考え、どんな表情を浮かべてるのかは判らない。
僕は、サバンナの生まれでは無かったのだから。
ヒトとの関係というのは、こういうものだろうなあと想う。
もし、この僕が寄りかかったフェンスと、川の間にある距離にして5mくらいのところで、
殺人事件でも起きたり、
綺麗な女のこと目でもあったのなら、
それは僕にとっての事件になるのだろう。
でも、きっと、
対岸を歩いてるオバさんたちが、
今この瞬間クモ膜下出血で倒れたとして、
僕はその事象について、現実の事件として捕らえる事ができないかもしれない。
そのオバさん達の向こうには、
名前も知らない会社の青い建物が見える。
きっと僕は、そのことを憶測しているにすぎないのだけど、
そこにはたくさんの人たちが、いつもの僕と同じように、
誰がやってもやらなくても、世界という時計のねじを巻き上げるという事に対して、
なんの責任も、影響もない仕事を、右から左に(或いは上から下に)流しているのだろうと想う。
でも、現実的には壁で遮られて、
そこにヒトが居るのか判らないということは、
仮に其処に誰かが実在していたにせよ、
僕の想像する誰かとは、本質的に違うものだ。
それなのに、きっと壁を透過する、サバンナ生まれの目線があるのなら、
自分と全く同じように、その人たちが、心臓の鼓動を刻み、呼吸してることが判るに違いない。
会社の勤務時間中に、
川の向こうで、誰かがクモ膜下出血したとしたら、僕はやはり、少し驚いて、
周りにヒトがいないなら、救急車を呼ぼうとするかもしれない。
青い建物の中で、殺人事件が始まっていようと、
芸能人のヌード撮影会が行われていようと、川のこちら側に居る僕には判らない。
もし川までの5mに自分好みの女の子が独りで立っていたら、
僕は其処に降りる道を探して、声を掛けるかもしれない。
でも間違いなく、
僕は誰の内側にもある気持ちというものに対して、
目で見ることも触れることもできないのだから、
その事に対して、常に適切に行動できるとは限らない。
これは、人類全体が抱えている、根源的な問題なのかもしれないと想う。
僕自身は、性悪説なのかもしれないが、
現実の中で、川べりまでの5mの間に、
もし自分が関与する事で、事態が少しでも良くなる、
或いは、自分にとって益があることに、殆どの人間はやはりアクションを起こすのではないだろうか。
具体的に言うのなら、
口でどれだけ、冷たく言い放とうと、
一度"情”というものが生まれてしまえば、
見た目ほど、クールに相手に接する事が出来ない人間というのは、
僕が想うよりは多いのかもしれない。
ただ、誰と誰の間にも、
5mの距離も、青い壁も、カナヅチにとっての川も在るわけで、
いつもいつも、
遊歩道まで降りていける回り道を見つけられるわけでもないし、
女性が暴漢に襲われてる場面で、助けなきゃ!と右足が前に出るわけでもない。
世界には、悪意や善意が、光在れ、というように存在するわけではなく、
漠然とした距離感だけが、この川の流れのように横たわっているのではないだろうか。
対岸を歩く、"女性”をみて、僕はそんな事を考えるのだった。
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とまあ、妄想ではあるのですが~、
現実のHydeの思考回路を書いてみました。
その結果、皆さんがどんな感想を持つのか、
2本みて、教えてくれると、
俺は喜んだりするわけです。
