仮説・幻⑥「目に映る他者の実体」 | 獏井獏山のブログ

獏井獏山のブログ

ブログの説明を入力します。

・既述「幻②迷い」で記したように、地球には人間が住んでおり、私も無数に生きている人間の1人に過ぎず、私の死後も地球と人間社会や生き物が歴然として存在し続けるものと認識している自分…それは今でも50%の割合で私の中に存在する。

・仮に、上記の認識が真相だとしても、全ての人達が私と同じような意味を帯びて「神の命によって修行の為に地球に遣わされている」とは考えていない。…本来「神聖天国」に籍を置く魂達が「神」の命を受けて、この地球上に遣わされ人間として生きて動き回っている者が何億人居るかは知らないが、各人は夫々全く違った目的を持って生きていると考える。

抑々(そもそも)、面と向って話合っている人の視界に映る事象は私と同じとは限らない。同じ言葉を交わし、話が通じ合い、何かの対象物についての論評が一致したからと云って、両者が目にする映像や認識が一致しているかどうかは疑問である。似通った姿を持つ人間同士だから事象に対する見え方も認識も同じだと錯覚しているだけに過ぎないかも知れない。それはその人間にならない限り分かりっこない事だ。

              ★

 1つの事柄に対して話し合う時、両者の意見が対立する事例は多々ある。それは各々がもつ信条、思想、性格、知識量、生活環境などの相違がそうさせるのだと考えがちであるがそれだけではないだろう。それは両者の視線にある事象が全く違った形で映っている所為(生まれながらに備えた五感の機械的な機能の差)ではないだろうか。私はそうに違いないと8割の確率で確信している。そうでなければ、物の判定、世情(政治を含む)に対する考え方への対立者が長い年月にわたって同じ価値観に至らない状況は理解できない。もっと卑近な例を挙げれば、美術品や装飾品、家具調度品に対する美的感覚の相違も基本的に五感機能の違いから発していると考えられる。