人生④「自分探し」 | 獏井獏山のブログ

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・朝、瞑想すると、自分に纏わる色んな過去が脳裏から沸き上が

ってくる。これは一種の自分探しである。自分探しとは、即ち

自分の心探し」に他ならない。

・すると遣りたいことが次々と浮かんでくる。前々から諸用に追われて遣りたくても出来なかった事柄が心の襖の裏側から次々と姿を現わす。そればかりではない。以前には考えもしなかった事や、ふと思ったもののとても不可能と判断して頭から消し去っていた事など(潜在的願望)が、余暇を得て瞑想し「自分探し」をすることによって初めて顕在化した願望という形になって見えてくるのである。

・例えば「自分の死に対する準備」それは最低これだけの事は成し終えないと死にきれないと思われる事柄。言い換えれば、それを成し終えないと何のために生きてきたのか分からないと思われる事柄に着手することである。

また、一般常識からすると余りにも軌を逸脱した妄想と決めつけられるため抑制し、いつの間にか潜在意識の中に埋没していた「…密かな願望」。

また、例えば「自分に係る社会的地位」や「社会一般の基準による能力」や「他者の視線に対する見栄」等から人に分かる形では着手出来なかった「ライフワーク」とも云うべき事業への着手、等々である。

・また、瞑想せずとも「多忙から解放されたら是非読もう」と暖めていた数百冊の名著・読み物の類をこれに加味すると、やり残した事、死ぬまでにやり終えたい事の多さに改めて身の締まるのを感じる。

・やっと一定の余暇を得て「自分探し」ができ、その結果遣りたいことが山ほど見付かり、しかも、それらへの着手の緒に就くことも出来る状況を得たものの、いざ遣り始めると今度は、とてもじゃないが生きている間にそれらの全てをやり遂げるのは不可能なことに気付く。

 こんな事なら「潜在的願望」を自覚せずに過ごした方が良かったのではないかとさえ思えてくる。そうすれば心残りも無く人生を全う出来た、と満足して死ねたかも知れないのに、と。

 反って可惜(あたら)自由時間など得られずに死に際まで仕事に打ち込み、自分探しをする暇もないうちに死を迎える方が幸福な人生を送れたと云えるのではないか、と。

 しかし、そうはいかないのが人生である。人は死ぬ寸前に脳が澄み渡り、一瞬のうちに自分の過去を振り返って「潜在的願望」を含め、自分のやり残した全ての願望を鮮明に脳裏に映し出すのだ。そして、その多くについて着手しなかったばかりか、気付きさえしなかったことに無念の思いを抱きながらこの世と別れることになるだろう。

・このことから人は、経済的その他の特別の理由が無い限り、出来るだけ早いうちに「自分探し」の時間を確保すべきだと考える。

・とは云うものの、幾ら早目に「自分探し」が出来、生きている間に成すべき「潜在的願望」を見出したとしても、全てを遣り遂げることが不可能に近いという問題が残る。

この点に関しては如何ともしがたいジレンマがあり、神の悪戯としか言いようがない。

 ただ、1つの救いはその事を逆手に取って、「出来ない事は仕方がない。少なくとも”自分探し”の時間が持てて、「潜在的願望」を知り得て、端緒的着手が出来たことで我慢しよう」と、割り切るケジメを獲得できる点であろう。