ほめられて、嬉しい人、困ってしまう人。ほめ文句を口にするのが、上手な人、苦手な人。そして、人との繋がりでは、他者をほめることは大事だと思う人、全くそうは思わない人。

そうすることで見えなくさせたいものが安堵するから、人は、他者をほめる。隠れていたものがより後方に退くから、人は、ほめられて喜ぶ。ほめるという欺瞞級の偽善は、いつから始まったのだろう?

 

人の分を見下し、人の失言や失態(誤り、過ち)を嘲るのは、本性が、蛇や猫同然のそれだから。普通に人間であれば、それはあり得ない。

そんな彼らが何より嫌がる(恐れる)のは、自分が見下され、嘲られる立場になること。差別や嫉妬、優越などの感情は、そんなところから生み出される。

 

その人なりのペースでの体験が、その手前に有る時、そこでの知識は、隔たりをつくらず、そのままの優しさへと、それは使われる。

知ることを重ねるだけの、個の欲からなる知識は、それ自体が、隔たりを生み出す力。そこでは、優しさも、知識(つくり物)である。

 

個人的な感動や共感は、特別な経験として脳の中に記憶され、その材料であるそこでの知識も一緒になって、そこに居場所を手にする。

いつしか、経験は溶け、知識は強くなる。そして、それと質の異なる知識を遠ざけるようになり、経験は、同じことの繰り返しのそれになる。

知識が個人的である時の、その計り知れない危うさ。衝突や争い、病気や不健全さも、そこでは、あたり前の経験となる。