これは77年前の1945年、鹿児島県で本当

にあった出来事です。

終戦の年の1945年6月3日。

現在の鹿児島県みなみさつま市に

1機のアメリカ軍機が不時着し

やがて日本軍の捕虜となりました。

下の写真はその時撮られたものです。



その当時の鹿児島は「知覧」と「万世」

(ばんせい)の2ヶ所に特攻隊の飛行場があ

りました。

当時のアメリカ軍はその2ヶ所の飛行場を

爆撃しようと密かに計画し

1945年6月2日、空母「シャングリラ」を

沖縄から鹿児島沖へと進艦させたのでし

た。

戦闘機を乗せて航行する空母「シャングリラ」

そして6月3日、捕虜となったディクソン

中尉が操縦する戦闘機は、空中戦の末、

日本軍機に撃墜され、万世地区の海岸に

不時着したのでした。


この時、捕らえられたディクソン中尉は

近くの公民館まで連行されました。



その時彼を連行した日本兵というのが私

の祖父だったそうです。


当時現場にいた地元の方の話によると、

最初は憎くき敵国の兵ということで、地

元の子共達は不時着した戦闘機を棒で叩

いたりしていたそうです。




しかし操縦席にディクソン中尉の家族の

写真が飾ってあるのを見つけると、敵と

て同じ人間だという思いに

同情の念が湧いてきたのだそうです。





それから祖父とディクソン中尉は海岸か
 
ら近くの公民館までの3.2キロの道のりを

共に歩いて進むのでした。


 
公民館までの道中、エドワード中尉は敵

国の兵士であったため地元の住民達から

棒で叩かれたり、石を投げられたりしま

した。

しかし彼を連行した祖父は、捕虜になっ

たディクソン中尉を自分が身代わりにな

り助けたそうです。



「たとえ捕虜とて、母国のため命を賭け

て戦う者同士。絶対にけがはさせてはい

けない」

祖父は軍に入隊しその事をきつく教わっ

たそうです。



公民館にたどり着くまでの道中、お互い

に辛く複雑な気持ちだったはずだと思い

ます。



その後終戦を迎え、ディクソン中尉は無

事故郷のアメリカへ帰還されたそうで

す。



伯父(祖父の長男)の話によると、ディクソ

ン中尉がアメリカへ帰還された後、鹿児

島の万世へ御礼の手紙が届いたそうで

す。





「あの時は親切にしてくれて大変ありが

とうございました。」との内容だったそ

うです。




その後祖父は故郷の長崎県雲仙市に戻り

戦後の貧しい中8人の子供を育てあげ沢山

の孫、ひ孫にも恵まれ85歳でその生涯を

終えました。




それからディクソン中尉のその後につい 

てですが、ネットで調べたところ、偶然  

にも見つける事ができたのです。 


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