ここはどこだろう。
あたしは盲目の彼と手を繋ぎながら歩いている。何時、誰と来たのかまったく記憶に無いけれど、この風景を覚えている。たしかこの角を曲がると公園があったはずだ。あたしは彼の手を引いて角を曲がった。彼はあたしの恋人だけど、何処で出会ったのか憶えていない。思い出そうとするの頭の中に霧がかかっていき、総てを真っ白に隠してしまう。
公園に掛かったね、と彼は言った。あたしは吃驚して彼の方を見た。彼は田圃の方を向いていたが、やはり目は閉ざされたままだった。どうしてわかるの、とあたしが尋ねると、彼は公園の方を向いたまま、だってが子供の声がするじゃないか、と当たり前のように言った。あたしは恋人ながら怖くなった。彼のまるで目が見えているような勘の良さに。ひょっとしたら彼は人の心すら読めるのかもしれない。いっそのことここに置いて走って帰ってしまおうかと思った。すると彼は、フフン、と鼻で笑った。あたしが、どうしたの、と尋ねると、別に、と言ってにんやりと笑った。その笑った顔を見てぞっとした。やはりどこかに置いていこう、この先彼と一緒にいることを想像したら、怖くてたまらなくなった。ふと公園の向こうを見ると大きな林があった。あそこなら、彼は帰ってこれなくなるだろう。彼はまた、フフン、と鼻を鳴らした。
あたしは黙々と林を目印に歩いていった。道は不規則に曲がっていて、森から遠ざかって行く様な気がしてくる、正面に見えていた森が気が付くと、左へ右へと移っていくと段々不安になってくる。気持ちばかり焦って林は全然近づいてこなかった。もう一時間は歩いただろうか、足には疲れが溜まり、歩みは遅くなってくる。
「もう少し行くと、ベンチがあるよ。」彼はにんまりと笑ったままの顔で言った。彼の言うとおり、少し先を曲がったところに木でできたベンチがあった。ペンキは所々剥がれていて、足が少し腐っている。座るのに躊躇っていると、座れば、と言いながら、彼が座った。あたしがとなりに腰をかけると、いやいや、盲目は疲れるよ、と言った。「だからあたしが手を引いてるじゃない」疲れて少し苛々していたのか、あたしの口から出た言葉は吃驚するほど感情的だった。その言葉を彼は鼻で笑い、ほらね、と言った。「手を引いてもらってるのに申し訳ないけど、親切を押し売りされるんだよね、親や恋人にも」
なんだかもう嫌になった。いらつくのだけど、そのいらつきを何処にぶつけてよいのかわからない。体の中にたまって自分にぶつかっていくような気がした。
「よし、そろそろ行こうか」あたしが言うと、彼は座ったまま、どっちに、と言った。道の先を見ると二股に分かれている。看板には右「ナツメ」左「漱石」と書いてあった。あたしが少し悩んでいると、左がいいんじゃない、と彼が言った。左を見ると、森は正面になり道は広がり、その先は黒く大きな穴のようになっていた。少し怖くなり躊躇していると、遠慮しなくてもいいと彼が言った。あたしは怖がっているのを読まれたと思いかったした。そして彼の手を強引に引き、「漱石」と書かれた道を歩いていった。
林に入ると彼が、ようやく付いたね、と言った。「もう少し歩くと右の方に大きな杉の木が見えてくるよ」あたしは彼が何を考えているのかわかならくなり思わず、何が、と彼に聞いてみた。すると彼は当たり前の顔をして、「何がって、わかってるじゃないか。これでもう二度目なんだから」と嘲るように言った。
そうか二度目なのか。彼に言われるとなんだかわからないけれど、知っているような気がしてくる。衝撃と炎。轟音があたしの記憶の中から蘇ってきた。やはりあたしはこの場所にきたことがある。なんだかわからないけれど、こんな夜だった気がする。きっともう少し奥にいけば何かを思い出すだろう。そう思うと段々と不安になってくる。早く彼を置いてこの場をさらなくては。あたしはますます足を速めた。
大きな杉の木の根元の所でそうそう、丁度この辺だったよな、と彼が言った。木はとても大きいのだけれど、幹の部分がえぐれていて焦げ付いていた。何か大きな物がぶつかり燃えたのか、えぐれている部分を中心に円を書くように枝や葉が焦げていた。
「丁度一年前だよね」と彼が言う。その言葉があたしの頭の中で共鳴して広がっていく。あたしは涙をながしながら、そうだね、と言った。木の根元には沢山の花や手紙が添えられている。雨や朝露で滲んだその手紙はあたし宛だった。彼の見えない目から涙が溢れ出していた。「去年ふたりでドライブに行った帰りに、居眠り運転のトラックに当てられて俺達はここに落ちたんだ」彼の声は弱々しく震えていた。
あぁそうだ。そして彼は視力を失い、あたしは命を無くしたんだ。
彼はあたしを抱きしめたが、彼の暖かさは伝わってこない。気が付いてからあたしの周りは真っ暗闇になっていた。