こんばんは。


本日から16日までお盆。

亡くなった方々があの世で

どうか幸せに暮らせますようにおねがい


大型連休で帰省されてらっしゃる方々も

多いでしょうね。

亡くなった方々に

共に想いを馳せましょう照れ


人間は、

死んだらそれで終わりなんて人がいる。

確かにそれもその通り。

でも、

私は少し違う見解を持っている。

(宗教上[仏教上]どうかは知りませんが爆笑)

その見解とは、

自分の中で、

亡くなった人が本当に亡くなったと

認識出来るまで個人差があり、

その個人差はあってよく。

いつまでもクヨクヨするななんて人も

いるが、

優しさにしてもそれは大きなお世話であり、

亡くなった人は、亡くなった人を大切に想う

人によってずっとその人の中に生かされる。


私は私のオカンが亡くなったと

真に認識するまでゆうに

25年位はかかりました照れ

義理のお母さんも未だにだし、

親戚の愛すべきオバちゃんも未だにです照れ


で、

いいのだと私は思っています。


哀しみを引きずるのは故人にとっては

きっと負担になるだろうから、

現在に生きる自分自身が故人から

何を得ていくのか?

ってことを考えた時、


人は他者によって活かされるという機能が

備わっていて、

その備わった機能は、

無理から外す必要もなく、

例えば、

身近な人だけではなく、

これまで肉体的にはこの世を去った人々、

例えば、

自分にとって優れた書物の著作者なども、

その人の生死に限らず、

私の中でいつも息づいていて、

事あるごとに

その人の生が芽ぶく時が頻繁にある。

死者との対話なんて言葉になるのかな?

その人に勝手に相談することすらもある照れ


人間ってのは、


因果な生き物で、


どこまでいっても因果な生き物で、


だから、


区切りの為に葬式をあげ、

区切りの為に法要する。


それは、

亡くなった方の為っていうよりは、

亡くなった人を哀しむ人々の

為のものであり、


ならば、


その存在が

その人の中に生き続けることに

なんの問題があるのだろうか?


ってことをいつも疑問に思います。


死者への冒頭?

そんなことしていたら、

故人が成仏出来ない?


誰が決めたん爆笑


因果に生きるのが私たちなら、

その因果は自分で引き受ければ良い。


それは

生き方全般にも言えることであり、

原因と結果が因果律であるのなら、

原因は前提であり、

その前提は、

それだけ亡くなった人々が

自分にとって存在すべき

理由があるってことであり、

何故、シンボルとしてのお墓があり、

位牌があり、お盆があり、

例えば、

「お父さん(お母さん)どうぞ安らかに。

そして、

これからも私(私たち)をずっと見守ってね。」

っていう

ある意味の傲慢さも、

家族や近しい人なればこそ

許されるものである。

って私はそう思います。


それは、


神さまや仏様に

お願い事をするのと同じこと。


つまり、

僕らは死なんのよね。


いつまでも、

誰かの記憶に残り続ける限り、

誰かの中で存在し続けるってことであり、


そう感じると、

お盆の受け取り方が如実に変わります。


生死の境はあるようで、

実はない。


『まあ、よーお帰り爆笑

遠いところをありがとう。

さぞやお疲れになったやろ。

お盆とか、そんなんゆうてんと、

ゆっくりくつろいで、

いつでも気軽にお越しやすウインク


あくまでも個人の見解です照れ


本日の生き塾ブログは、

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です。

良かったらご参考まで。

素敵な夜を。

ココロテラス
つむらけんじ