3.11でした。

10年という年月を経て、メディアでも言われてるように 忘れてるなあ… と思って。

 

3.11関係の番組を見ていて

なんか全然断片的な当時の記憶が蘇ってきました。

 

前提として、私は宮城出身で実家は比較的都市部にあり、津波の被害とはやや縁遠いです。

また、当時は私は東京在住在勤でした。

 

 

震災当日、実家は大きな崩壊はなかったものの私の本棚が崩壊したり食器棚の中の食器が大方割れたりなどの被害はあった。

大学に行っていた弟は車で割とすぐ無事に帰ってきたが、母は日が暮れるまでにやらなければいけないことに明け暮れていたらしい。

父は出張で東北の西の方にいた。



 

ラジオを出すこと

食器を片付づけることと

冷蔵庫の痛みが早そうな食材に火を入れること(ガスが止まっていたので卓上ガスコンロで)

これから水道が止まることに備えて風呂に水をためること

納戸から客用毛布を引っ張り出して暖房の効かない夜に備えること


などだった気がする。




 

 

母は宮城県沖地震も経験しており、電気ガス水道がこれからしばらく機能しないであろうことを見据えての行動だった。

実際その後、ガスは1か月 電気は数日 水道は1週間 くらい止まったと聞いた。

 

ガスは風呂で最も困ったらしい。

幸いにも実家の付近には父が社員寮として借りていたプロパンガス仕様のアパートがあり、家族や近しい人が順番にその家の風呂を使ったらしい。

※プロパンガスは機能していた

 

 


 

 

震災から5年後くらいに、実家で3.11であったことを聞いたら弟が「●●(家族ぐるみで親交がある寿司屋)の親方が寿司を原付で届けてくれた」と話してそんなことあったのかと驚いた。

 


 

●●の親方は、とにかく冷蔵庫の電気が止まった。でも時間的に仕込みはしている。


食材を無駄にしたくないのと親切心で、我が家にも寿司を届けてくれたようなのだ。



親方は父が家にいると思ったので、3人前をゆうに超える量を持ってきてくれたらしく弟はとても喜んだという話だ。

なかなか印象的なエピソードだと思う。

 



 

二重に驚いたのは母は弟がその話をするまで、そのことを忘れていたことだ。

父はいない、自分の実家の年老いた両親や親戚も心配だ。津波もあったらしい、でも自分は家を守るのにやらなければならないことが山ほどある。

極度の緊張状態だったのだろう。




うちの実家よりも甚大な被害を受けた人はとても多い。

だからどこか自分の家は大したことない部類と思い込んでた。思いたかったんだと思う。

それでも、母はそうは自分では認めないし言わないけど深く傷ついていた。

 

 





分断されたり不通になった道路をなんとかかき分けて父は3日後に家に着いたらしい。

 

父は会社を営んでいたが、事業はストップ。

何とか日銭を稼ぐ為に塩水に浸かった農耕トラクターを買い取るという商売を一時的に行った。


津波を被った地域に一般車両は入れず、許可証を持った車両や人だけが入れる。※もともとの住民はOK、火事場泥棒防止策だと思われる。





2011年のゴールデンウィークに私が帰省した際に、その地域に父が巡回するのに一度着いていった。

 

 

段取りはこうだ。

ひたすらその地区を車で巡回すると、泥にまみれた・時としてひっくり返ったトラクターがある。


場所が畑かどうかなんて関係ない。流されているのだから、セブンイレブンの跡地にすらトラクターが転がっていた。

 

トラクターを見つけたら張り紙をする。


「●●会社です このトラクターを●万円で即金・現金で買い取ります 連絡ください:以下電話番号」

 

運よく電話がかかっていたら、そのトラクターの場所で待ち合わせをし(ランドマークがそれしかない)現金取引をする

その後父はトラクターを業者に洗浄させ、部品レベルにバラシてベトナムの業者に売って収益を得ていた

 




 

父に着いて行った先の光景は衝撃的だった。

 

泥だらけのアルバムを抱えて歩いていた女性

バスが乗っかっていた低層ビル

泥にまみれた自分持っていた雑誌の付録(確かポーチだったと思う)、三輪車、子どもの靴

外から見ると問題がなさそうだが、役所?から「もう入ることすらNG」の紙が貼られた家

 




海水のにおいのせいか、やけに海が近く感じた。存在感を感じたとも言える。

とにかくどこも泥だらけだった。




 

月並みだけど、本当にたくさんの人の生活と命がものすごい力で奪われたことをあの時初めて実感した気がする。

写真を撮ろうとはとてもじゃないができなかった。自分がその地区の住民だったらまだしも…当時は感じたのだ。

 

10年たった今、人々に伝えるということの大切さを感じる。撮っておけばよかった。

 

だからこそ思う。

あれを撮った人は、多分ものすごい辛さを感じながら撮ったんだろうと。

写真を撮るという行動に私は全く詳しくないけど、何も感じずには撮れない風景だった。

痛みを感じながらそれでも撮った写真であったり動画だと思う。

 

だから震災・津波関連の写真を見ると「つらかっただろう、でもお陰様で思い出せる。ありがとう」と心の中でつぶやいてしまう。

 

 

ここまでお読みになった方…長くてすみません。

ただ、自分でもまたこの先10年で忘れることがたくさんあると思うので書き留めてみました。

まだまだ沢山あの時のことはあるけれど、とりあえずここまでにします。

 

平和な今日と、おなかの子を含む家族の存在に感謝です。