今回の「旧東海道歩き」の記事も最後となりました。沼津~三島~箱根~小田原と、天下の険・箱根を越えるのに4日も要してしまいました。やっとのことで小田原市内に入りました。

 

 

 

 

箱根登山電車「箱根板橋駅」です。

 

 

 

 

 

新幹線ガードをくぐった右側に…

 

 

 

 

小田原藩主大久保家菩提寺「日蓮宗・大久寺」がありました。天正19年(1591)徳川家康の重臣であった小田原藩主大久保忠世が建立した法華宗(現在は日蓮宗)のお寺です。

 

 

 

 

 

その後2代忠隣が政治の謀略によって小田原城を改易されると、法灯は一旦途絶えてしまいます。しかし忠世の伯父の玄孫大久保新八郎が箱根入湯の折り大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興し今日に至ります。

 

 

 

 

 

 

正面向かって右から大久保忠常、大久保忠隣、大久保忠世、大久保忠良、大久保忠勝、大久保忠俊、忠良の娘と並んでいます。

 

 

 

 

東海道本線ガードをくぐりますと「板橋見付」です。

 

 

 

 

「居神神社」があります。永正17年(1520)北条氏綱によって創建されたとされます。祭神は三浦義意(鎌倉幕府の中核を担い三浦半島を本拠に相模国を治めた三浦一族の最後の武将)で、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ三浦半島新井城にて自刃、享年21歳でした。いつもなら登って境内をめぐるのですが…

 

 

 

 

少し歩くと…「人車鉄道・軽便鉄道・小田原駅跡」の石柱があります。「人車鉄道」っていったいなんなの⁉…石柱には「明治29年3月、熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設され、早川口が小田原駅となった。明治41年に軽便鉄道とし、小田原電鉄からの乗り換え駅としてこの地方の交通に恩恵を与えた。大正11年12月、国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって、その任務を全うした。」…とあります。

 

 

 

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で調べてみました。

 

かって人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道がありました。明治28年(1895)7月に熱海~吉原間で営業開始、翌29年(1896)3月熱海~小田原間が開通します。当時熱海は温泉宿が30軒ほどの保養地で大変人気がありましたが、東京方面から熱海に至るには、海沿いの険しい道を歩くか、駕籠か人力車を利用するしか方法がありませんでした。この頃の国鉄東海道線は熱海を迂回し、国府津から御殿場経由で中京・関西に通じていました。

 

そこで熱海の旅館業主を中心に京浜の実業家らが鉄道計画を興し、当初は普通の鉄道を施設しようとしましたが資金が集まらず、事業家雨宮啓次郎氏の発案で人車鉄道に規格変更し建設したというのです。

 

 

「豆相人車鉄道」と呼ばれ、小田原~熱海間25.6㎞、駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。6両編成で1車両に平均6人、それを2~3人の車夫で押していました。日に6往復し、急な坂になると客も降りて一緒に押すというのどかな風景も見られたとか。

 

軌道幅は610㎜、車両の長さ1.62m×幅1.5mという小さなものでした。上等車は定員4人、中等車は定員5人、下等車は定員6人乗りで内装にも違いがあったようです。明治29年当時、下等車40銭、中等車60銭、上等車1円、3歳未満は無料、10歳未満は半額だったそうです。

 

 

 

明治41年(1908)8月に軌間を762㎜に変更し、軽便鉄道(蒸気機関車による牽引)に転身します。小田原~熱海間の所要時間が約3時間と短縮となったそうです。しかし、国鉄東海道本線ルートが丹那トンネル開削、熱海経由に変更されることが発表されると、採算が合わないとしその一切を国(国鉄)に売却します。そしておもに丹那トンネルの作業員の輸送手段として運行されてきましたが、大正12年(1923)に起きた関東大震災により軌道は寸断され、事業の幕を閉じたのです。

 

なお、翌年となる大正13年(1924)には東海道線(熱海線)が熱海まで通じ、昭和9年(1934)丹那トンネルが開通し、現在の東海道本線となったのです。

 

 

 

熱海鉄道7号蒸気機関車。車両長3.36m、高さ2.14m、幅1.39m、重さ3.6屯、時速9.7㎞、客車定員40~50名。

展示場所・熱海駅前。

 

 

 

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小田原の町も暮れようとしています。

 

 

 

 

 

かって小田原市内を走っていた市内電車が展示されていました。小田原電気鉄道(小田原市内電車)は明治33年(1900)開業した我国4番目の電車で、国府津~湯本間12.9㎞の軌道線でした。大正9年(1920)小田原駅が開業すると、熱海線~国府津~小田原が開通し、軌道線は小田原駅に乗り入れました。昭和10年(1935)になると、小田原~箱根板橋間の市内電車となりましたが、自動車の普及により昭和31年5月廃線となっています。

 

この車両202号は、その小田原~箱根板橋間を走った車両の一つです。

 

 

 

 

 

街灯にも灯が入りました。先を急ぎます。

 

 

 

 

小田原城もシルエットです。

 

 

 

 

 

繁華街を歩き…

 

 

 

 

小田原駅です。新幹線に乗り帰宅です。さてこの続きはいつのことになるやら…

 

 

                        2022/11/10