「高山陣屋」は、飛騨高山観光では必ずといっていいほど訪ねるところの一つです。私の高山町めぐりの最後の記事でもあります。
ここで飛騨高山の歴史について少し触れておきます。飛騨は、日本列島のほぼ中央に位置し、古くは縄文時代から東西南北の文化が押し寄せ、複雑に交錯しあいながら発展してきたところです。
縄文時代の遺跡も数多くあるのですが、正史に初めて登場するのが、両面宿儺(りょうめんすくな)の反乱です。『日本書紀』によれば、身体が一つで両面四手四足の怪物が、大和朝廷の命令に従わず、将軍難波根子武振熊によって征伐されたとあります。
大和朝廷から見れば、いわゆる「まつろわぬ者」で、怪物に仕立てられ挙げられたのでしょうが、地元では、英雄として語り継がれています。
この「両面宿儺」像は、あの円空が刻み、飛騨高山千光寺に安置されている像のレプリカで、円空記念館に展示されています。
大化の改新後の税制で、飛騨は租・庸・調のうち租・調を免除される代わりに、庸、即ち労働力として大工が都に出向き、社寺などの建築に携わりました。その結果、飛騨の匠らが中央の文化を持ち帰り高山に入ってきます。
平家が天下を握ると、飛騨は平家の領国となります。そして戦国時代になると、益田郡に勢力を持っていた三木氏が高山に進出します。この頃豊臣秀吉が天下をとりますが、三木氏は従わず秀吉の家来金森長近に滅ぼされてしまいます。
飛騨を平定した金森長近は、天正14年飛騨国主として入国、城を築き同時に城下町造りも進めまます。以降金森氏は6代107年間続きますが、元禄5年突然出羽国に転封となり、金森氏の統治は終わります。
そして、その後の飛騨は徳川幕府直轄となり、代官所が置かれます。以来明治維新まで25代177年にわたり、代官・郡代が江戸から派遣され、行政・財政・警察などの政務を司りました。御役所・郡代役宅・御蔵などをあわせて「高山陣屋」と呼ばれていました。全国に唯一現存する郡代・代官所で、300年の時を超えて飛騨の歴史を伝えています。
表門・・天保3年(1832)建造。
文化13年(1816)建造。
玄関之間にある「青海波」です。この文様は先に記事にした「吉島家住宅」の高窓障子にも使われてましたね。
御役所です。
嵐山之間です。郡代が生活した場所です。
御蔵です。元禄8年高山城から移築され、年貢米の蔵として利用されたものです。
御居間です。
便所です。
囲炉裏にも青海波。
大広間の床の間。
吟味所前の御白州です。刑事関係の取り調べを行ったところです。ぐり石敷・屋根付が特徴です。
御蔵から見たところです。
外から見たところです。
中ノ口です。
本陣まえの一角に山岡鉄舟の銅像が建っていました。飛騨郡代として着任した父にともなって陣屋に入ります。書は高山の書家、剣は江戸から招いた井上清虎に北辰一刀流を学び、禅や国・漢学、絵画なども高山在住中に学び、人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたものとされます。父母の死後江戸に帰り、勝海舟などとともに幕臣として活躍。西郷隆盛と会見して江戸を戦火から救います。
明治維新後は、明治天皇の侍従をつとめ、華族に列せられ、勲功により子爵授けられます。明治21年53歳でその生涯を閉じます。
2013.10.19