点と矢印で因果関係を記述すると、そこには分岐や合流も現れてくる。例えば工場は原材料や設備、人員が合流し、製品や賃金のみならず廃液や廃材、排気ガスなども周囲の生態系にもたらす。従業員の所得は、地元の商店街を発展させ、税収で上下水道や道路、学校なども整備しされる。しかし有機水銀の廃駅という分岐をおざなりにしたことで、水俣に大変な災厄をもたらしたことにも留意したい。

 分岐は、波及効果あるいは副作用と言われる。でもこの表現は、主作用のおまけのような扱いで、しかも一次作用までしか視野に入れていない意味合いがある。有機水銀の例では、廃液は仮に安全基準を満たしていたとしても、生体濃縮のように二次三次と作用を先まで見通し、水産物を摂食する水俣の人びとまで視野に入れるべきものだった。

 分岐についてもう一つ指摘すべきなのは、別の分岐が頑健な循環系をつくり、他を圧する傾向である。水俣の場合でも、ニッソの関係者は潤い地方財政を支える。一見、地域経済の良循環のようだが、ニッソに表立って批判するのも憚れる地域社会になる。ニッソはもともと国策企業だったこともあり、有機水銀中毒事態も否定され、反対運動にはバッシング、さらに公然と暴力が振るわれた。

 このように分岐を追うことで、問題の全体像をつかむことができる。事前にこうした点と線をつないでいれば、水俣病も防げていたかもしれない。現在であれば、カジノ問題、タワー公害、リニア問題なども分析の対象である。外部不経済の例だけでなく、外部経済の例も挙げられる。シンガポールの経済成長を取り上げると、戦争で荒廃した港湾、マレーシアから分離されたところから、緑園都市を掲げて港湾から貿易、観光を振興、その基盤の上に外資による加工貿易、貿易金融を発展させ、その機能と都市環境を踏まえてアジア本社立地、さらにバイオ、映像などの知的産業の育成に向かっている。分岐に分岐を重ねて、その相互作用によって地域経済圏を形成したパターンである。リー・クアンユーらはこんな絵を頭に浮かべていたのだろう。

 分岐を追うことで、経済外部性の全体像を把握し、事前に対策を講じることで健全な社会経済系を成立させることが出来る。