イクメン応援団のブログ

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子どもを愛するイクメンたちを応援します。

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イクボスという言葉を聞いて、うちの課は課長が古いから、といった若い子がいた。

 

そう。中小企業なら社長が言えば会社全体が動くかもしれないが、会社が大きくなると、中間層の温度差はある。部下を馬車馬のように走らせることでしか業績を上げられない上司に当たることだってある。

 

そもそも、人手は足りない、業務は終わらない!そんな中で早くなんて帰れない、ってのもよくあることで、社長がイクボス同盟にサインしたから今日から早く帰れる、なんて訳はない。

 

逆に、中小企業だと「イクボスなんて何の話?」って会社だって珍しくはないだろう。日々の業務に必死で、時代の変化を読むどころではない経営陣というのも珍しい話じゃない。

 

そんな中でどうすればいいんだ、って悩む若いパパもいると思う。

 

ダメボスにあたるっていうのは、実は珍しいことじゃない。むしろ、当たり前なんだと思ったほうがいい。そんなすごいボスばかりだったら、日本の会社はもっとすごいことになっているはずだ。マネージメントがへたくそ、部下のモチベーションをそぐ、そんな上司の顔を思い浮かべるのに困る人はあまりいないだろう。

 

本当に困るのは、こういうダメボスの下にいると、そういうダメボスの悪い面の影響を受けることだ。ダメボスの下に、小ダメボスがいてキーキー言っているイメージ。そんな小ダメボスに自分がなってしまうわけだ。

 

前回書いた、不良マンガを読む不良と同じ構図だ。

 

多くの人間は、自分の属する社会の支配的な価値観を身に着けるのは当然といえば当然。そうじゃない奴は非常識だと言われるわけだ。

 

つまり、ダメボスの下でもまっとうにイクメンであり続け、さらには、イクボスへと進化していくためには、ダメボスが支配する閉じた社会の中では異端児でいるしかない。

 

これはある意味で辛いことだと思う。なんといっても、周りに合わせるのは楽だから。

 

社会の変化は思っているより速い。ダメボスは急に変わらないだろうけれど、イクボスは間違いなく増えていく。社会の価値観も変わっていく。必ず変わっていく。でも、子どもの成長はそれを待ってくれないから、今しばらくは、君はつらさに耐えるしかない。それはきっと報われる。子どもの笑顔によって。それだけじゃない。君の姿勢を評価する社内の声も必ずあるはずだ。

 

なんだかんだ言っても、実は皆、時代の変化に怯えている。

 

彼らは怖いのだ。だから君を、ダメボスの仲間に引っ張り込もうとしているのだ。君が「異端児」であろうとするとき、君は怖いかもしれない。けれど、本当に怖がっているのは彼らの方だ、ということも覚えておいたらいいと思う。

 

 

 



若い頃、カッコいい上司がいた。
カッコ悪い上司も、もちろんいた。

カッコいい上司のタイプはいろいろだったが、カッコ悪い上司は、皆、同じようなタイプだった。

仕事が出来ないのに自覚がない。部下の手柄は自分の手柄だと思っていて、しかも部下に横柄。一言で言えば、周りに対して鈍感。たいていはだらしなく太っていて、時間の使い方が下手なのはもちろん、部下の時間まで無闇に無駄にしてくれる。

一言で言うと、他人に対して無神経。

同僚たちの意見も、この手のタイプに対しては悪い評価で一致していた。

ところが、時間がたつにつれ、なぜか多くがこの手のタイプに近づいていく。

ある人が、不良マンガを読む不良の多くがカッコいい主人公にあこがれつつ、実際にはダサい悪役に似ていく、と言っていた。人はそのくらい自分のことは見えない、と。

カッコ悪い上司の悪口を言っていた奴も、多くはカッコ悪い上司に似てゆく。

振り返ると自分はどうなのだろう。

少なくとも、職場に来ている一人一人の背後の生活、様々な事情があることに対する感覚は持ち続けたいと思う。

イクボス、って言葉がある。

語感はともかく(ごめん)、イクボス、カッコいいと思う。

私もイクボスでいたい。いや、育児に限らず、他者に配慮できる人間でいたい、と、当たり前のことを願う。


脳性マヒで障害を持った友人がいた。彼ははじめ、養護学校に入っていたのだが、ある日、同級生が亡くなった。年をとり、自分たちが死んだ後の子どもの将来を悲観した親が無理心中を図ったのだった。

それに衝撃を受けた彼は、地域での自立生活を目指すことになるのだが、それはまた別の機会に。

障害を持った子どもの親御さんに何人か会ったが、皆さん、魅力的な方々だった。親として、どのような思いを乗り越えてきたのか、明るく強く、障害を持つ我が子を受け入れる姿に感動すらした。

ところが、障害を持つ人々が地域で自立生活をしようとしたとき、最初の壁も、まさにその親御さんだった。(すべてではない。)自分がいなければこの子はやっていけない、という言葉を何度も聞いたものだった。

そんなときに思い出していたのは
GuardianがGuardianになる、という言葉。

保護者が看守になってしまう。それまでは子どもを守っていた存在が、いつの間にか、子どもを圧迫し、押さえ込む存在になってしまう皮肉。

それで、自分自身、子育ての上で、子どもは自分とは別の存在であるということを意識してきた。

ただ、最近になって思うのは、子どもを守ってきて、いつの間にか、子どもを抑圧している側にされてしまう、そこまで必死に子どもを守ってきたあの人たちはすごかったんだな、と。子どもの成長にうろたえる姿は、本当はすごく格好良かったんだなあ、と。

あの素敵な親御さんたちの明るい笑顔が懐かしい春の夜。