飼 い犬になりさがったのか。
フサフサのトイレマットに足を埋めながら、俺は自問自答を繰り返していた。このフサフサのトイレマットを使うがあまり、俺は大事な何かを失ってはいないか。
牙だ。
あの時、確かに持っていた、
野生の牙を失っていた。
*
明らかに他の奴らと違う、色の濃いおしっこの入った紙コップをワゴンに置いて、俺は再び受付の彼女のもとに戻ってきた。完全に指示待ち部下である。
すると彼女はスーパー銭湯に使うような腕に巻くタイプのコインロッカーの鍵をトンとこぎみ良くカウンターに置いた。今度の指令は更衣室で着替えて、ついでに血圧を測れという。
いよいよ緊張感が増す。
健康診断童貞(ヘルスチェックチェリーボーイ)な俺は、当然だが血圧を測ったことがない。こんなことなら電気量販店のセルフ血圧測定器コーナーでプラクティスしてくればよかった。ええい、ままよ。
まずはコインロッカーに行って患者スーツに着替える。こいつを身に纏えばどんな健康男児でも病人に見える。俺は腹が出ているので凄くフィットする。両端をヒモで結ぶと完全に患者スーツとのシンクロ率が綾波の数値を超えていた。そして今気がついた事なのだが、みんな我先にと競い合うように素早く着替えていた。俺以外のヤツは仕事を休んで健康診断を受けているので、早く終わらせば、その分その日のオフが長くなるのだ。
俺も吊られてバタバタと早着替えをしてしまった。その後すぐさま横にある血圧測定器に並ぶ。急ぎすぎてグループBの先頭に来てしまった。血圧測定器の測り方が分からない。なんか必要以上にドキドキする。何となく輪っかに腕を突っ込んで、起動ボタンを押すと腕がどんどん締められる。ガララアジャラの攻撃のように一気に締め上げられた後、すーっと緩まり終わった。レシートみたいな検査結果をちぎり、横にいる看護師に渡した。血圧を測ったこともないのでその数値の意味が分からないが、看護師はレシートを見るやビックリした顔をしてもう一度測ってくださいと言う。こっちは何のことか分からずにもう一度腕を突っ込む。看護師は「落ち着いてくださいね」と俺に声をかけた。そ、そんなに血圧がヤバいのか。2回目もさほど変わらなかったが、最初の数値よりは幾らか落ちた。看護師は半ば諦めた表情で俺にレシートを渡した。
患者スーツの小さなポッケにしまい、もと居た待合室に戻った。待合室の長椅子に腰掛け、周りを見渡すと先ほどのとびっきりの美人も患者スーツを着て背筋をピンと伸ばし座っていた。彼女は患者スーツを着てもその気品を保ち続けていた。
最高にエロい。
彼女の整った横顔を眺めていたら「ピロリロリン♪」という音が俺の体の中から聞こえてきた。ヤバい!これは、これは、ドラマ「毎度お騒がせします」で主人公の木村一八が興奮すると股間が痛くなるサインだ。そんな休息も束の間、また番号で呼び出された。身長、体重、胸囲などを測られ、あれよあれよと注射コーナーに連れて行かれた。
血液検査。
前回のブログでも言ったが、俺はお注射が大嫌いだ。しかし、歴戦の強者オババ看護師が血圧レシートを渡した俺の腕を返す刀でむんずと掴み、ブスッといきなり注射針を刺してきた。
痛くない。
老獪なオババのテクニックで全然痛くない。寧ろ痛くないのが気持ち悪いぐらい痛くない。注射器に俺のドロドロとしたデルモンテトマトジュースが吸い込まれていく。それを見つめているだけで記憶を失いそうになる。
最大の難関を超えた。
次は人生初のバリウムだ。レントゲン室に連れて行かれて、ラムネみたいな錠剤と例のバリウムをいきなり飲まされた。味はヨーグルト風味だったと思う。ここで患者スーツを脱ぎながら男性レントゲン技師の微妙にキャンする言葉のイントネーションを聴いて、俺のそっち系の嗅覚が炭治郎ばりに鋭く察知し、すーっと意識の白い糸が繋がる。
オカマだ。
間違いなくこのレントゲン技師はオネエ言葉なのだ。隠していても俺には分かる。そして俺はこれからこのオカマのレントゲン技師の前でパンイチになり、レントゲンを激写される。
ローリングするクレイドルに貼り付けられ、いよいよレントゲン撮影会のスタートだ。見るからに根暗そうな坊ちゃんヘアのオカマレントゲン技師にリモコンの操縦桿を握られ、冷たいローリングクレイドルが無機質に運転を開始する。
ガガッ
グイーン
バシャ
オカマのレントゲン技師は俺にポージングの指示をする。
もうちょっと身体を横にしてー。
そう、そう、いい感じ。
ガガッ
グイーン
バシャ
二人の気持ちはシャッターを重ねてともにエスカレートしてくる。
もっと身体を傾けて。
もっと、もっと限界まで。
そう、そうよー。
ガガッ
グイーン
バシャ
俺は2回ほど御法度の小さいゲップをしてしまったが、オカレンには気がつかれていなかった。辛くもレントゲンを終わらせると次のブースで待たされる。
とうとう医師による最終カウンセリングだ。いよいよ俺は入院させられるのか。Bグループ男子の先頭を維持してきた俺は、この待合室で初めて今まで一緒に戦ってきた戦友たちと顔を合わせることになる。同じ会社のサラリーマンであろうおっさんとヤンサラが椅子で並んで喋り始めた。おっさんはタレントでいうと高橋克実的な正統派おっさんルックス、ヤンサラはジャニーズくずれのホストといったところだろうか。この後の予定の話しをしているが、高橋は家でゆっくり過ごすらしく、ヤンは一旦家に帰ってから、仲間と新宿に呑みに出かけるのだ。
いや、そんな情報はどうでもいいが、気になったのはこのヤンの言葉遣いだ。完全に歳上な高橋にタメ口以下なのだ。お前は社長の息子か?
それとも世紀末覇者か?
ヤンはどんだけ偉いんだ。聞いてて段々とムカっ腹が立ってきた。年長者を敬えないヤツを俺は許せない。このヤンの遊戯王みたいなツンツンヘアを引っ叩きそうになったところで俺の名前が呼ばれた。
まるで懺悔のように、3つ並んだ診察室の真ん中の引き戸を開けて、中にいる医者の前に置かれた丸椅子に座った。喉、眼、聴診器と軽く調べ、彼はちらりと書類を見て、たった一言だけこう言った。
お酒の飲み過ぎですね。
終わりである。そもそも、俺は事前のアンケートに…
Q.この診断結果によっては、今までの生活習慣を変える意思がありますか?
と言う質問に
☑︎ない
と答えていたのだ。それなのでこの診察は終わりである。生活習慣を変えないかぎりはアドバイスもできないのだ。健康の入り口にさえ立ってない俺に彼はこう付け加えた。
血圧が異常に高いので、
そこは十分注意してください。
人生初の健康診断が終わった。
受付の看護師は、心と身体、人間の全部がボロボロに疲労した俺に8千円を奪いレシートと一緒に病院近くの喫茶店のモーニング500円のチケットを渡してきた。
なんだこんなもん!
病院を出ると俺が20年近く通勤していた事務所のビルが建て直されて、マンションになっていた。9月なのにやけに澄んだ朝の空気を吸い込んだら、お腹が鳴った。
さっきくしゃくしゃにしたモーニングチケットを広げてシワを伸ばし、晴海通りと昭和通りが交差する歌舞伎座横の喫茶店に入った。眺めのいい窓際の席に座り、おもむろに血圧が下がる水を調べ出した。
珈琲を一口啜ると、健康診断で出会ったあの横顔が飛びきり美しい女性が目の前の椅子に座った。
健康診断も悪くない。