これを読んでいる皆さんは、一体何を求めて私のブログに辿り着いたのでしょうか。それについては私は知る由もないのですが、自身の一年前を振り返ってみると、私は先輩である16期のブログを、上から下まで全てに目を通したことを思い出します。憚ることもなく言ってしまえば、あの時の私を動かした、異様なまでのモチベーションは「必ず細谷ゼミに入りたい」というものでした。入学前からこのゼミに入ろうと決めていた私にとって、この選考はそれほどまでに大きなものでした。
ありがたいことに、一年前の私と同じ気持ちでこのブログを読んでくださっているのかもしれません。そんな方にとって時間はとても貴重なものでしょうから、私の自己紹介はすっ飛ばして、主観にはなりますが、選考の際に気をつけるべきポイントを僭越ながら記していきたいと思います。私について知りたければ、ゼミに入ってからスコッチでも酌み交わしながらとことんお話ししましょう。私もあなたのことが知りたいのです。
早速ですが、一番の重要なポイントは、「知的謙虚さ」であろうと、私は考えます。より正しくは、「等身大の自分で挑むこと」でしょうか。これについて詳しく説明するためには、少々回りくどくはなりますが、ゼミの存在意義、というものから考え始める必要があります。
これは細谷先生も仰っていたことなのですが、最近の大学では、ゼミというものの存在意義が根底から揺らぎつつあるようです。大学にもコンプライアンスの厳格化の波はやってきており、大学生と教員がより近い距離感で、数年にわたって一つのコミュニティに属することは、大学運営の側にとっては厄介な問題の発生源なのでしょう。
ですが、そこにこそ、ゼミの存在意義はあると私は思うのです。多くのことをとことん学びたいなら、授業をたくさんとるとか、メディアセンターと家の往復をしていれば良い。週に2コマか1コマのゼミより、多くの「知識」は手に入るでしょう。ゼミの意義は、そうではなく「居場所」にあります。コミュニティ、共同体とも言い換えられるでしょう。2年間同じ師を仰ぐこと、同じ仲間たちと議論をしあうこと、その相互作用から得られるものは、単なる知識ではなく、知恵や知性にまで発展し得るものだと言えるでしょう。
しかし、気をつけなければいけないのは、ゼミは、最近よく使われるような「多様性」であるとは言い切れないということです。ゼミは無秩序のカオスではなく、間主観的なものです。私の理解が正しければ、間主観とは、社会における主体の集合的な知識として構成されている社会的な現実を意味するものであり、主体の行動に影響を与えるのみならず、主体の行動によって変化するものです。何が言いたいかと言えば、ゼミでは教員とゼミ生同士での対話と議論によって主観が共有され、結果として、共通した枠組みや価値観が生まれ、複数の主体が「同じものを見ている」状態が生み出されます。その意味で、「人種のサラダボウル」よりも、「人種のるつぼ」の方が近いと言えるでしょうね。
このことは、重要な教訓を提供してくれます。それはゼミによって明確な「イロ」の違いが存在するということです。細谷ゼミも、18期目になります。色々な人が入って、色々な人が卒業していきます。しかし、その中心にはいつも細谷先生がいて、卒業していったOB・OGとの繋がりは永らく続いています。であるからこそ、共通の価値観、雰囲気というものは、受け継がれているものです。ここまで読んで、察しの良い方はお気づきかもしれませんが、ゼミの選考とは、何もあなたの優秀さを測るものではありません。ゼミに受かったから優秀だとか、ゼミに落ちたから無能だとか、そんな暴力的な断定は私が最も嫌うものです。既に存在するゼミの雰囲気に合っているかどうか、という「お見合い」の要素が多分に含まれ得るのです。(この点では一部の就活の面接も近いものがあるでしょう。) だから、もし選考に漏れてしまったとしても仕方ない、あまり落ち込む必要はない、あなたの居場所は違うところにあるよ、と言いたいでのですが、ゼミを志望する皆さんがそんなことを言われても困ってしまうだけだと思うので、「ではどうすれば良いのか?」についても書いていこうと思います。
ここで、最初に書いた「等身大の自分で挑むこと」というのが大事になります。もしゼミの選考がお見合いであるとするなら、お見合いに挑む人間の態度として適切なものは、自分を偽りすぎず等身大の自分をみせることであると言えるでしょう。なぜ、わざわざ多忙を極める細谷先生は5000字もの自己紹介文と読書遍歴の作文を課した上で、一人一人面接をしていくのでしょうか。それはあなたの表層ではなく、あなたの根底にあって、あなたを構成する価値観を引き摺り出すためです。もしあなたが虚勢を張って、自分を偽ろうとしたならば、面接では容赦無く、否が応でもその仮面が引き剥がされることになるでしょう。もしそれでも仮面が剥がれないようなら、選考する側としては判断材料がなくて困ってしまいます。諦めて、最初から自分を偽らずに振る舞うのが賢明でしょう。
ここまで周りくどい文章を読んでいただいた熱意ある読者の中には、その熱意余って、「価値観のマッチング」という部分に軽い絶望を感じるかもしれません。なぜならそれは努力では変えられないことですからね。それに入ったこともないゼミの価値観や雰囲気なんて、わかるものではありません。しかし、態度として意識できることはあります。それは存在している価値観を尊重し、適合し、「仲間入り」できるという態度です。そこで重要になるのが「知的謙虚さ」です。既に述べた通り、ゼミは教員とあなたの一対一の関係ではなく、間主観的で、相互尊重に基づくものです。だからもしあなたが自分の優秀さ、博学さをアピールしたとしても、それが過剰であるならば、むしろ懸念材料になりかねないのです。「こいつはそのちっぽけな脳みそで出しゃばってゼミをぶち壊すんじゃないか」ってね。
結論をまとめるならば、作文課題においても面接においても、重視するべきことは、「無理に自分の知識や優秀さを過大にアピールしようとするのではなく、自身が何を考えて生きてきたか、等身大の自分を文章に投射し、他者を尊重しながら学び合うことができるということを証明する」ということです。そもそも、学部生が2年で学んできた程度のことを、慶應義塾大学の教授に評価してもらおうというのが、土台無理な話なのです。そんなことに精力を注ぐよりも、等身大の自分を見つめ直すことの方が有意義です。是非まっすぐ課題と向き合ってください。きっといい機会になりますよ。
ゼミの存在意義など、回りくどく言いましたが、私はこれらを理解した上でゼミを選んで欲しいとも思っているのです。ゼミ選びには「就活勝ち確」だとか、不安につけ込んだ無根拠の流言が蔓延っています。自分の目で見たものを信じて、悔いなき選択をして欲しいのです。その上で、等身大の自分を見つめ直した皆さんと、18期の後輩としてお会いできる日を楽しみに待ち望んでおります。きっと不安なことも多いでしょうが、応援しています。
最後まで読んでくれた方のために、面接を含め、自分がそれぞれの課題にどう向き合ったかを軽く示しておきます。
〈自己紹介文〉
ほぼ自分史である。生まれてから現在までに、何を考えて人生の選択を重ねていったか、それが現在の自分をどう構成しているかを、一貫性を意識しながら書くと良い。しかし、その上で、人生のレベルからなぜ細谷ゼミを志望するかに至ったのか、という端的な理由を紐解き、結論として最初に持ってきた。同期の中には、書き出しを「オギャア、私は生まれた。」という衝撃的な一文にした者もいる。積極的にパクりましょう。
〈印象に残った5冊〉
これも自分史に近い形にした。小学生・中学生・高校生・大学生でそれぞれどのようなきっかけで何を読んだのかをまとめた。重要なことは、先生は何も本が知りたいわけではなく、それを読んだ「あなた」について知りたいのだ、ということをゆめゆめ忘れるなかれ。
小学生:『蝿の王』(ウィリアム・ゴールディング)
中学生:『進撃の巨人』(諫山創)
高校生:『21 Lesons』(ユヴァルノア・ハラリ)
『ワーニャ伯父さん』(チェーホフ)
大学生:『大陸関与と離脱の狭間で』(大久保明)
〈書評〉
これは課題文献によって違うのでなんとも言えないが、私の頃は、課題文献が書かれた時代と現在の時代に大きな隔たりがあったので、現代的に再解釈しながら課題文献の意義を考えていった。
〈面接〉
大学院生二人と細谷先生の三人体制での面接。課題文を掘り下げられるのが基本。自己紹介や印象に残った5冊から質問されることがほとんどで、書評について聞かれることは稀だと言えるでしょう。しかしどのパートでも、国際政治など、専門的な知識について書けばそれはとことん掘り下げられることでしょう。よほど自信がある場合のみ書きましょう。
直前の対策としては、面接での回答内容と課題文の内容に齟齬が出ないように今一度読み返してからいきましょう。第一に、面接でもボロが出ないほど偽りなく書くのがベストではあるのですが。
実際に質問された質問(質問されたと他の人からの情報も含む)
・志望動機
・将来の進路希望
・ゼミで楽しみなこと
・(過去の細谷先生の授業をとっていれば)そこで印象に残ったこと
・自分の長所/短所
・(サークルについて書いていれば)サークルのイベントの概要など
・細谷先生出演のメディアや執筆された書籍を読んだことがあるか
・日吉の勉強で頑張ったこと/印象に残った授業
など
